どんな人生歩んだらあんな歌が歌えるんだろ?
彼が存在してなかったら、アメリカの歴史が変わっていたかも。
まあ、まずはそんな傑作『My Way(マイ・ウェイ)』を聴いてみて↓↓↓フランス語だった原曲にポール・アンカが英詩をつけたものが、1969年発売のシナトラ版。
フランク・シナトラの人生
フランク・シナトラは、20世紀のアメリカを代表する大スターのひとり。
まずは、彼のキャリアからご案内しましょう。
幼少期
フランク・シナトラ(Frank Sinatra / Francis Albert Sinatra)は、1915年12月12日ニュージャージー州生まれ。
幼いころから音楽が好きで、ビッグ・バンド・ジャズをよく聴いていたようです。
両親はともにイタリア系移民で、フランシス(本名)が幼いころはバーを経営していました(禁酒法の時代!)。
一人っ子のフランシスは店で過ごす時間が長く、客前で歌ったときにチップをもらったことが、彼の原体験。
ラジオから流れるビング・クロスビーに強く憧れていたこともあり、プロを志すようになりました。
そのとき鼓膜に穴が開き、左ほほから首にかけても傷跡が残ったため、彼は右側からのカメラアングルを好んだといいます。
ビッグ・バンド時代
やがて20代になったシナトラは、地元のイタリア人ボーカルグループへ参加したのち、ソロ・シンガーとしての道を歩み始めます。
’39年には、ベニー・グッドマン楽団のトランペッター、ハリー・ジェイムスが新たに立ち上げたビッグ・バンドに専属歌手として加入。
記念すべき初レコード『From The Bottom Of My Heart(フロム・ザ・ボトム・オブ・マイ・ハート)』をリリースしたのも、バンドとの共演によるものでした。
しかし、より高みを目指していたシナトラは翌年、トロンボーン奏者トミー・ドーシーの楽団へ移籍。
ドーシーのバンドでは、ビルボード・チャートにも載ることができました。
こうして実力をつけたシナトラは、‘42年に独立してコロムビアとの契約にこぎつけました。
またたく間に大スターとなりますが、数年後にはスキャンダルなどから人気が低迷。
レコード契約も解除されてしまいます。
音楽性から私生活まで、大きく影響を受けたみたいだね。
復活~黄金期~最期
ところが、シナトラがすごいのはここから。
’53年に脇役で出演した映画でのオスカー受賞を機に、再びスターダムに返り咲きます。
新たに契約を結んだキャピトル・レコードからは、『Swing Easy(スウィング・イージー)』や『Songs for Young Lovers(ソング・フォー・ヤング・ラヴァーズ)』をはじめ、多くの名作が誕生。
さらに、’60年には自身のレーベル「リプリーズ・レコード」を設立。
彼の代表曲『Strangers In The Night(夜のストレンジャー)』も『My Way(マイ・ウェイ)』も、この時代のものです。
その後1971年3月、55歳のときに一度引退しますが、3年後に復帰。
『Theme from New York, New York(ニューヨーク・ニューヨーク)』のヒットなど、さらなる活躍を見せました。
そして1998年5月14日、ビバリー・ヒルズの自宅で心臓発作を起こし帰らぬ人に。
82歳でした。
アレンジャー、ネルソン・リドルとの名盤『Swing Easy』と『Songs for Young Lovers』が1つになったお買い得版。『All Of Me』『My Funny Valentine』収録。
シナトラのVoice
その唯一無二の歌声を称えて、「TheVoice」というあだ名がついていたフランク・シナトラ。
ここからは、彼のボーカルが持つ圧倒的な魅力について解説します。
シナトラ前・シナトラ後
ジャズでもありポピュラーでもあり、フランク・シナトラの音楽をジャンル分けするなら「スタンダード」という言葉がぴったり。
というか、彼が歌ったからその曲がスタンダードと呼ばれるようになった、という方が正しいかもしれません。
楽曲の魅力を最大限に引き出す彼のボーカルは、いつの時代においても人々の心にストレートに刺さります。
崩した歌い方をせずとも、歌声だけで十二分にオリジナリティを感じさせる、まさに「The Voice(ザ・ヴォイス)」というあだ名にふさわしい人物です。
たとえばド定番『Fly Me To The Moon』も、シナトラにかかるとこんな仕上がりに↓↓↓
シナトラ歌唱の特徴
耳心地のいい声質となめらかなフレージング、親しみが感じられる歌心…シナトラのボーカルには多くの魅力があります。
中でも特徴的なのが、「クルーン(croon)」唱法。
マイクの発達に伴って登場した、ささやくような優しい歌い方のことで、音響技術が未発達だった時代の歌手には、ニュアンスよりも声量の大きさが求められていました。
シナトラが敬愛するビング・クロスビーは、まさにその第一人者。
といっても一方でシナトラは、オペラの歌唱法も研究していたようなので、さまざまな努力の末、自身のスタイルを確立したのでしょう。
ジャズマンが憧れる男
ジャズ黄金期真っただ中の1956年、ある音楽雑誌が、マイルス・デイヴィスやデューク・エリントンをはじめとする、100人の一流ジャズ・ミュージシャンにアンケートを取りました。
そこで、「最も偉大な男性ボーカリスト」ぶっちぎりNo1に選ばれたのが、白人のフランク・シナトラ。
というのも、シナトラが育ったのは、イタリア系移民が迫害を受けていた時代のアメリカです。
そんな歴史を経験しているからこそ、彼の歌は人種の壁を超え、黒人ミュージシャンにもリスペクトされたのかもしれません。
シナトラの晩年のヒットは、トニー・ベネットやアレサ・フランクリン、U2ボノなど、ジャンルを超えた一流たちとのデュエット・アルバムでした。2枚発売されたその両方を一緒にしたメモリアル版。
求心力とハートの強さ
レコード売り上げ1億5000万枚、オスカー2回獲得、流した浮名は数知れず…。
輝かしい功績の一方で、とにかく濃ゆい人生を送った人でした。
シナトラ一家
プロデュース能力にも長けていたシナトラは、業界内の友人たちに声をかけ、1957年、「ラット・パック」(シナトラ一家)と呼ばれるエンターテイナー集団を結成。
‘50~’60年代にかけて、サミー・デイヴィスJr.やディーン・マーティン、ピーター・ローフォード、ジョーイ・ビショップらと一緒に活動していました。
もともと売れっ子同士の友人グループだった彼らは、メンバーのライブに別の誰かがサプライズ出演したりして、お互いのキャリアをサポート。
また、ラスベガスツアーやハリウッド映画など、そろって出演することでアメリカ中を熱狂させました。
大統領とのつながり
1956年にラット・パックのメンバーであるローフォードが、当時まだ民主党上院議員だったジョン・F・ケネディの妹と結婚。
その縁で、シナトラもケネディ家と家族ぐるみで付き合うように。
1960年にジョンが大統領選に出馬した際には、ラット・パックのメンバーたちと資金調達パーティーに出演するなど、熱心に協力していました。
そんな折、シナトラはジョンに自身の元カノ、ジュディスという女性を紹介。
ジョンとジュディスは不倫関係になるのですが、このジュディスというのがなんと、シナトラともつながりのあるマフィアのボス、ジアンカーナの愛人でした。
ジョンは、ジュディスにジアンカーナを紹介してもらい、選挙の協力を依頼。
こうして1961年1月、みごと選挙を制したジョンの大統領就任パーティーは、シナトラの仕切りで行われました。
ちなみに、ジョンがあの大女優マリリン・モンローと男女の関係にあったのは有名な話ですが、2人を引き合わせたのもシナトラだったみたいです。
でもジョンは、このときのマフィアとのつながりや女性関係が問題になって、急激にシナトラを避けるようになったんだよね。
マフィアとの関係
シナトラが幼いころ、迫害を受けるイタリア系移民が、生活のために犯罪に手を染めることは珍しくありませんでした。
同じイタリア系同士で助け合うのも自然な流れで、そのため、彼らの間では同胞マフィアは頼れる親戚のような存在だったかもしれません。
実際、過去のインタビューでシナトラは「マフィアに何人か知り合いがいる」という旨の発言をしているし、最初の結婚相手ナンシーもマフィアの副ボスとつながりのある女性でした。
ドーシー楽団を抜ける際にも、ドーシーは独立の条件として、シナトラが収入の43%(!)を生涯彼に支払うという契約を結ばせたのですが、この副ボスの働きかけにより契約は解除。
また、そんな裏社会とのつながりや女性関係などを理由に、一時は業界を追われたシナトラが、華麗なる復活劇を遂げた背景にもマフィアの影が。
カムバックのきっかとなったのは、1953年公開の戦争映画『地上より永遠に』での名演でした。
本作の企画を知ったシナトラは、登場人物のひとりであるイタリア人兵士役に起用してもらえるよう、プロデューサーに懇願し続けたそう。
固くなに拒否していたプロデューサーが最終的にOKしたのは、マフィアに脅されたからではないか、と噂されています。
稀代のモテ男
とにかく恋多き男だったシナトラは、生涯に4回も結婚しています。
最初の結婚は1939年で、お相手は10代の頃から付き合っていたナンシー・バルバトという女性。
彼女とは3人の子供をもうけました。
長女のナンシー・シナトラは、親子共演もしていて日本でも人気ですが、長男と次女もショービズ界で活躍しています。
可愛い子供たちに恵まれたにもかかわらず、シナトラは次々と美人女優や美人モデルたちに手を付けては、ゴシップ誌をにぎわせていました。
前述したマリリン・モンローや、映画『オズの魔法使い』のジュディ・ガーランドも、その中のひとりです。
そんな女癖の悪さが原因で、1951年には最初の離婚が成立。
ところが、離婚からなんと10日後に、そのときの不倫相手だった人気女優エヴァ・ガードナーと2度目の結婚をします。
しかしこれまた、シナトラの浮気が原因で1957年に別れることに。
3度目の結婚は少し開いた1966年のことで、お相手は30歳下の女優ミア・ファロー。
年齢差による価値観の違いは埋まることがなく、ミアとの結婚はわずか2年で終了しました。
そして、最後の結婚は1976年。
お相手は元ショーガールのバーバラ・マルクスで、結婚生活はシナトラがこの世を去るまで続きました。
お相手が美人ぞろいってのも、またスゴイ。
それに、最初の結婚でできた3人の子供以外にも、「自称シナトラの子」も複数人いるし、この先また現れるかも。
晩年の日本公演でのパフォーマンス↓↓↓武道館で聴いてもニューヨーク!
入門者にも上級者のまとめにもオススメの1枚。控えめに言って超スバラシす。