他にもたーーっくさんの名曲を残しているんだ。
筒美京平という大作曲家ができるまで
まずは、筒美京平バイオグラフィーからご紹介しましょう。
サラリーマンから作曲家に
筒美京平(つつみきょうへい/本名:渡邊榮吉)は、1940年5月28日東京生まれ。
実の弟にC-C-BやKAN、山崎まさよしなどの音楽プロデューサーとして知られる渡辺忠孝がいます。
幼稚園のころからピアノを始めて、一時はクラシックのピアニストを目指していたそう。
青山学院大学在学中はジャズにハマり、大野雄二(ルパンでお馴染みのこちらも天才作曲家)とも当時から面識があったようです。
大学卒業後に、日本グラモフォン=ポリドール(現:ユニバーサルミュージック)に就職。
洋楽部のディレクターをしていたところ、大学時代の先輩のすすめで歌謡曲の作曲をはじめます。
橋本さんの師匠でもある、すぎやまこういち氏(ドラクエでお馴染みのレジェンド)に筒美さんも師事して作編曲を学んだよ。
デビューと初首位
1966年『黄色いレモン』で、筒美は作曲家デビューを果たしました。
作詞はもちろん先輩、橋本淳。
気になるこの曲の歌い手ですが、まずは同年8月に当時すぎやまこういちの弟子だった藤浩一がリリース。
つづく9月に、アイドルとして売り出していた望月浩がリリースするという、”競作”スタイルでした。
ちなみにこの藤浩一というのは、のちに『およげ!たいやきくん』で大ヒットを飛ばす子門真人のことです。
その後、グループサウンズやアイドル歌謡曲などの作曲をするようになった筒美は、1968年12月リリースのいしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』で、初のオリコン1位を獲得。
9週に渡って首位を独走し、作曲家としての地位を確立しました。
↓↓↓筒美京平さん代表曲のひとつ。亀渕友香さんと金子マリさんがコーラスに入るという夢の競演バージョン。
筒美京平とヒット曲
以前、朝日新聞のインタビューで「最高で月に45曲くらい書きました。注文が来れば来るほど、いい仕事ができる。」と話していた筒美京平氏。
めったにメディアに出ない彼があまりにもヒット曲を量産するため、「筒美京平なんて人物は実在せず、作曲家チームで動いている」なんて噂もあったそうです。
輝かしい記録
筒美が作った作品はおよそ3,000曲。
その中でセールス的に最も成功したのは、1979年に発売されたジュディ・オング『魅せられて』で、123万枚以上の大ヒットでした。
この曲と、1971年の尾崎紀世彦『また逢う日まで』で2度、レコード大賞も受賞しています。
さらに前代未聞の記録として
●1971・1972・1973・1975・1976・1981・1982・1983・1985・1987年の国内作曲家別レコード売り上げ年間1位
●1960~2000年代まで5年代連続でチャート1位獲得
●オリコンチャートランクイン500曲以上(うちチャート1位は39曲、TOP3以内約100曲、TOP10入り200曲以上)
●作品トータル売り上げ枚数およそ7,600万枚(歴代作曲家第1位)
●2003年紫綬褒章受章
など、他にも書ききれないほどの経歴が。
どれを見ても、彼が文字通り日本一のヒットメーカーだということがわかりますね。
ヒット曲
筒美京平作品というと、ここには載せきれないほど大量にあるので、その中から厳選した有名作品を挙げてみましょう。
新人歌手
歌謡曲の全盛期、新人歌手を売り出す芸能事務所やレコード会社にとって、作曲家に筒美を指名するのは保険みたいなものだったといえます。
・南沙織『17歳』
・麻丘めぐみ『わたしの彼は左きき』
・太田裕美『木綿のハンカチーフ』
・岩崎宏美『ロマンス』『シンデレラ・ハネムーン』
ジャニーズ
ジャニーズ事務所からも長年にわたって依頼を受けていました。
・郷ひろみ『男の子女の子』
・近藤真彦『スニーカーぶる~す』『ギンギラギンにさりげなく』
・少年隊の『仮面舞踏会』『君だけに』
・田原俊彦『抱きしめてTONIGHT』
80年代アイドル
“アイドル全盛期”と言われる80年代の音楽業界も、筒美作品がヒットチャートを席捲していました。
・松本伊代『センチメンタル・ジャーニー』
・早見優『夏色のナンシー』
・小泉今日子『なんてったってアイドル』
・中山美穂『ツイてるねノッてるね』
平成ヒット
レコードからCDへと音楽ビジネスが大きく移り変わる中でも、筒美作品は輝きを放ち続けます。
・NOKKO『人魚』
・小沢健二『強い気持ち・強い愛』
・Kinki Kids『やめないで,PURE』
・TOKIO『AMBITIOUS JAPAN!』
作曲について
ここからは、生前
「僕らみたいな職業作家は自分の好きな音楽を作ることが役割ではなく、ヒット商品を作るのが使命ですから。」
と語っていた筒美氏の仕事について、ご紹介したいと思います。
洋楽の影響
バート・バカラックが好きだった筒美京平は、昔からジャズの他にも洋楽ヒットポップをラジオでよく聴いていたそう。
作曲家になって以降も、当時流行っていたモータウンやボサノバなど、海外の音楽を徹底的に研究。
構成やアレンジを日本人好みに変えるという手法で、曲を作っていました。
その結果、彼は日本の歌謡曲やポップスの表現を広げ、長きにわたってこの国の音楽界を支え続けたのです。
洋楽をもろに意識した本田美奈子さんの代表曲↓↓↓
相方
曲がヒットするにはメロディーだけでなく、歌詞がすばらしいことも必須条件であることは言うまでもありません。
筒美が最も多くタッグを組んだのは、やはり学生時代から付き合いのあった名コンビ橋本淳。
シングルだけでなくアルバム収録曲を含めると、トータル550曲以上の作品を世に送り出しました。
次いで『スニーカーぶる〜す』など80年代以降にヒット曲を生んだ相方、松本隆の380曲。
その次は今は亡き大物作詞家、阿久悠の120曲となっています。
堺正章『さらば恋人』と浅野ゆう子『セクシー・バス・ストップ』を歌いたい!
あなたはどの筒美作品が好きですか?
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