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天才ミュージシャン&名曲

史上最も好き嫌いが分かれる奇才★プリンスという名の伝説

2023年4月20日

グラミー賞を受賞したプリンス

出典:Prince Facebook→https://www.facebook.com/prince

 

さくらだくん
さくらだくん
『We Are The World(ウィー・アー・ザ・ワールド)』の回でもちょっと出てきた話題だけど、マイケル・ジャクソンプリンスはライバル関係だったの?
ソメイP
ソメイP
ホントのところは本人たちの胸の中だけど、同時代にズバ抜けた天才が2人いたんだから、周りが騒ぐのは無理ないよね。
さくらだくん
さくらだくん
見た目のインパクトが強いけど、プリンスもそんなにスゴイ人なんだ…。
ソメイP
ソメイP
マイケルとはベクトルの違う天才だよ。

 

 

プリンスの生涯

日本人ファンの間では、「殿下でんか」という愛称でも親しまれているプリンス。

黒人音楽と白人音楽が融合したその作風は、多くの一流アーティストたちからリスペクトされ、今なお影響を与え続けています。

 

 

生い立ち

プリンス(Prince Rogers Nelson)は、1958年6月7日ミネソタ州ミネアポリスで誕生しました。

父親はジャズ・ピアニスト、母親もソーシャル・ワーカー兼ジャズ歌手だったようです。

「プリンス」という大層な名前は本名で、父ジョンが音楽活動の際に名乗っていた芸名「プリンス・ロジャー」から付けられました。

 

プリンスが幼いときに両親は離婚

ほどなくして母マティは再婚しますが、この再婚相手との相性が悪かったプリンスは、家出を繰り返すように。

一方で、彼の才能が開花し始めたのもこの頃です。

7歳からのピアノを皮切りに、ギターにドラム、ベースにと、次々に独学で楽器をマスターしていきました。

 

 

数社が競り合ったデビュー

ティーンになったプリンスは、友人たちと組んでいたアマチュア・バンドにおいても、すでに輝きを放っていたようです。

ミネアポリス・サウンド(シンセサイザーを使ったファンクロック)の先駆者として、すぐにその存在は業界人の間でうわさになりました。

 

そして1977年、メジャー・レーベル数社による入札(!)が行われ、19歳の彼はワーナー・ブラザーズ社と契約。

高額な契約金とともに、最年少でセルフ・プロデュースの権利を手に入れたのです。

こうして翌’78年4月、作詞作曲からプロデュース、演奏までを1人でこなしたアルバム『For You(フォー・ユー)』でデビュー。

アルバム自体は大成功まで至らなかったものの、シングルカットした『Soft and Wet(ソフト・アンド・ウェット)』が、R&Bチャートで15位を記録しました。

 

 

70年代とは思えない、時代の先を行くサウンド↓↓↓

 

 

満を持して大ブレイク

日本デビューの2ndアルバム『Prince(愛のペガサス)』や、セクシー過ぎる歌詞ゆえに放送禁止になったシングルを含む3rdアルバム『Dirty Mind(ダーティ・マインド)』などで、着実にファンを増やしたプリンス。

彼が大ブレイクしたのは、’82年リリースの5thアルバム『1999』からでした。

全米で400万枚を売り上げ、本作からのシングルもビルボードTOP10入りを果たします。

 

そして勢いそのままに’84年、プリンスは自伝的ミュージカル映画『Purple Rain(プリンス/パープル・レイン)』で初主演。

「プリンス&ザ・レボリューション」名義で発売されたサウンド・トラックは、初週セールス100万。

なんと24週に渡って首位を守り、1,300万枚という爆発的ヒットになりました。

 

このタイトル曲で初のビルボード1位(ダンスチャート)を獲得↓↓↓世紀末を迎えるパリピのためのキャッチーなナンバー。

 

 

天才プリンスの最期

『パープル・レイン』でグラミー賞もアカデミー賞も獲得したプリンスは、その地位を不動のものに。

以降も、’89年に大作映画『バッドマン』のサントラを担当したり、’92年にはアーティスト名を発音できないシンボルマークに変えたり、時代のトップを走り続けました。

生涯で、つのグラミー賞6つのアメリカン・ミュージック・アワードを受賞し、ロックの殿堂入りなども果たしています。

12作のプラチナ・アルバム(売上100万枚以上のアルバムのこと)を含む、トータルセールスは1億5,000万枚以上。

 

そんな彼が亡くなったのは、2016年4月21日。

自身が所有するレコーディング・スタジオで倒れたそうです。

発表によると、死因はフェンタニル(強力な鎮痛剤ちんつうざい過剰摂取かじょうせっしゅ

57年の人生でした。

 

 

訃報ふほうとともに再評価された殿下の代表曲↓↓↓’85年アメリカン・ミュージック・アワードでのパフォーマンスをご覧あれ。

 

 

 

天才プリンスの伝説

数多あまたいる天才ミュージシャンの中でも、なぜプリンスがスゴイと言われるのか?

つづいて、記録にも記憶にも残る彼のアーティスト活動から、その理由を探ってみましょう。

 

 

マルチタスクがハンパない

アーティスト/ソングライター/プロデューサーという、どの角度から見ても才能がハンパないプリンス。

デビュー以来、最低年1ペースでアルバムをリリースしていたほどの多産でも有名で、未発表曲は8,000曲(!)ともいわれています。

おまけに、27種類の楽器をハイ・レベルで弾きこなせるので、レコーディングは基本的にすべて自身で演奏

特にギターは神レベルで、ジェフ・ベックエリック・クラプトン絶賛ぜっさんしています。

 

と、ここまで聞くと、ライバル(と言われてた)マイケルのファンは「でもMJは歌とダンスがゴイスーだからね!」みたいな、マウントを取るかもしれません。

が、しかし!殿下だって、歌もダンスもスゴイんです!

歌唱力だけを売りにしていませんが、彼のレンジは4オクターブ半

ダンスも、JBばりのスプリット(開脚股割またわりダンス)が得意だったりします。

 

 

セルフ・プロデュースのクセがスゴい

JBスライ・ストーンといった、個性的な先輩アーティストの影響を受けたというだけあって、プリンスもセクシーでファンキーなキャラでブレイクしました。

メイクや衣装、ステージングなど、彼はトータルで「プリンス」を演出していたのです。

のちに、改宗とともにセクシー路線は卒業するのですが、全盛期のミュージック・ビデオやアルバムのアートワークは、露出度ろしゅつどの高さが印象的。

また、歌詞にも過激な性描写がちらほら。

 

そのため、彼の楽曲やスキルを評価する前に食わず嫌いする音楽ファンも多く、初期のころは特に賛否両論さんぴりょうろん分かれていました。

でも、いま思えばこれらはすべて、彼が成功するために打ち出したイメージ戦略。

世界中が、まんまとわなにハマったわけです。

 

さくらだくん
さくらだくん
プリンスといえばだけど、『パープル・レイン』リリースより以前から紫をイメージカラーにしてたんだってね。
ソメイP
ソメイP
でも、妹タイカ・ネルソンの話では、彼の好きな色はオレンジらしいよw

 

 

時代のはるか先を行きがち

天才とは、時代の先を行くもの。

ですが殿下の場合、先を行き過ぎて、世間が置いてけぼりをくらうことが何度もありました(苦笑)。

おもな事件簿を挙げてみましたが、彼のぶっ飛んだ発想はこの限りではありません。

 

●’80年 3rdアルバムからシングルカットした、オーラル・セックスを連想させる『Head』と、近親相姦きんしんそうかんを題材にした『Sister』が放送禁止に。

●‘87年 様々な理由で発売中止となったアルバム『The Black Album』の音源がなぜか出回り、500万枚以上販売される事態に。これにより、プリンスは世界一海賊版かいぞくばんが売れたアーティストと言われている。

●‘88 『Lovesexy』の裸ジャケットが物議をかもす。しかし、このアルバムがスゴイのはジャケ写だけでなく、曲間ジャンプが出来ないように、全体が1曲という作りになっていること。

●’92年 男性(♂)と女性(♀楽器(ラッパ)を組み合わせたという、オリジナルデザインのマークをタイトルにしたアルバムを発表。発音ができないため、アメリカでは「シンボル」と呼ばれ、日本でも『ラブ・シンボル』という邦題で発売された。

●’94年 自身の名前を、2年前のアルバムタイトルであったシンボルマークへと改名。発音不可能なため、ラジオDJなどは「The Artist Formerly Known As Prince(元プリンス)」、またはそれを略して「The Artist(ジ・アーティス)」と呼ぶように。

●’07年 アルバム『Planet Earth』を、英国タブロイド紙の付録として先行無料配布。さらに、’09年に出した3枚組アルバムはレコード会社を通さず、大手ディスカウントスーパーで独占販売するなど、画期的なリリース方法で業界に波紋はもんを広げた。

 

 

 

殿下にまつわる噂の真相

派手なステージパフォーマンスとは裏腹うらはらに、素顔のプリンスは真面目でシャイな性格。

マスメディアに対しても秘密主義で、大のインタビュー嫌いだったんだとか

それだけに、さまざまなうわさがささやかれていました。

 

 

ワーカホリック

「天才」と呼ばれるプリンスですが、実はかなりの努力家で、異常なレベルのワーカホリックだったと言われています。

実際の彼を知るミュージシャンたちの証言からも、間違いないでしょう。

生涯しょうがいにわたって年1以上のペースでアルバムをリリースしていた彼は、毎日のように楽曲制作やレコーディングをしていたのだそう。

 

一方で相当数のライブもあったので、ハーサルに本番、その合間にレコーディング…。

しかも、すべての楽器を自らの演奏で録音することを考えたら、そりゃあ尋常じんじょうじゃない仕事量だったはず。

訃報ふほうの際にも、「死ぬ直前まで、154時間(6日以上!)も寝ずにスタジオ作業をしていた」と報道されていました。

 

さくらだくん
さくらだくん
死因となった鎮痛剤ちんつうざいも、ライブで股関節こかんせつを痛めてたから常用してたらしいよ。

 

 

ゲイ…じゃない?!

アーティストとしては中性的なエロスを表現していましたが、プライベートの彼はゲイではなくストレート

2度の結婚と離婚も経験しています。

けっこうな女好きだったと思われ、幾度となく熱愛報道が挙がっていました。

その中から、有名人のお相手を4名ご紹介しましょう。

 

シーラ・E

sheila-e-and-prince

出典:Rolling Stone

パーカショニストでシンガーのシーラ・Eとは、1980年代に交際していました。

過去のインタビューによると、’87年ころには婚約までいっていたようですが、数年後に破局。

しかし、2人の友情はそれ以降も続き、定期的に共演もしていました。

結果的に、プリンスファンからもっとも交際を応援されていたのは、彼女だったかもしれません。

 

マドンナ

どちらも80年代をけん引した同い年の2人は、マドンナがアルバム『Like A Prayer(ライク・ア・プレイヤー)』をリリースしたころに付き合っていたようです。

1曲目の『Love Song』では、プリンスが楽曲提供だけでなくデュエットもし、他にも数曲でギターを演奏しています。

しかし、マドンナがプリンスの身長(160cmないらしい)を笑ったことが原因で、あっという間にお別れ。

 

キム・ベイシンガー

prince & kim

出典:IMDb

31歳のときに付き合ったのが、5歳年上の美人女優キム・ベイシンガー

一説によると、’89年に映画『バットマン』のサントラを引き受けたのも、出演する彼女がお目当てだったからなんだとか。

その甲斐かいあって、2人は1年ほど交際していたようです。

 

ノーナ・ゲイ

最初の結婚の前にデート報道されたお相手が、ノーナ・ゲイ

マーヴィン・ゲイのページでもちょっとだけ紹介した、彼の娘です。

交際かどうかまでは定かじゃないですが、プリンスのお気に入りだったことは確か。

そんな、殿下のプロデュースでCDデビューした彼女でしたが、女優としての活躍の方が目立っていて、映画『マトリックス』シリーズや『クラッシュ』などに出演しています。

 

 

マイケル・ジャクソンとの不仲

同い年で、活躍した年代も同じという、プリンスマイケル・ジャクソン

作風こそ対照的でしたが、世間は彼らをライバルだとみていました。

マイケルの方からは、『We Are The World(ウィー・アー・ザ・ワールド)』への参加をはじめ、何度かラブコールを送っていたようです。

あの大ヒット曲『BAD』も、当初マイケルは2人のデュエットでリリースしたかったけど、プリンスが断ったといううわさも、両ファンの間では有名。

 

そんな2人ですが、実は1度だけ同じステージに立ったことがあります。

共通の先輩、ジェームス・ブラウンのライブで順にステージに呼ばれて、それぞれが少しだけパフォーマンスを披露ひろう

一緒に演奏していないのは残念ですが、胸アツの一夜となりました。

 

 

ソメイP
ソメイP
最後まで読んで、「興味はわいたけど今さらアルバム集めるのは…」って人は、とりあえずベスト盤を聴こう!

 

 

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