エルヴィス・プレスリーの人生
今回の映画化で、現代の若者にも一気に認知度がアップしたエルヴィス・プレスリー。
まずは、ロックンロールのルーツのひとりでもある彼の人生と、音楽との関係について見てみましょう。
生い立ち
エルヴィス・プレスリー(Elvis Aron Presley)は1935年1月8日、ミシシッピ州に住む父ヴァーノンと母グラディスの間に誕生しました。
実はこのとき、両親は双子をもうけていましたが、生まれるときにひとり亡くすという悲劇に見舞われています。
また、まだ若かったヴァーノンの生活力のなさや逮捕などにより、一家はかなり貧しく、家計を支えるグラディスは常に自分の飲み食いより息子を優先していたようです。
そんなエルヴィス少年に人生の転機が訪れたのは、11歳の誕生日。
母親が自分の食費を削ってプレゼントしてくれたのが、1本のギターでした。
やがて、エルヴィスは自宅地下で熱心にそのギターを練習するようになり、音楽にのめり込んでいったのです。
代表曲をミュージカルver.で↓↓↓よく考えたら囚人が囚人にアレのお誘いをしてるような歌詞w
黒人音楽との出会いとレコードデビュー
スーパースターへのさらなるきっかけは、13歳のときに家族で転居したことでした。
一家の引越し先であるテネシー州メンフィスは、彼ら白人ではなく黒人の労働階級が大半を占めるエリア。
ここでエルヴィスが、教会のゴスペルをはじめとする黒人音楽を聴いて青春時代を過ごしたことが、彼の音楽性に大きく影響したことは明らかでしょう。
そして高校卒業後、金型工場やトラック運転手などの仕事を経て、地元サン・レコードからインディーズデビューを果たしました。
サン・レコードといえば、B.B.キングをはじめとする黒人ミュージシャンを手掛けたレーベル。
そこでエルヴィスは、カントリーミュージックとR&Bが融合した、新たなサウンドを生み出したのです。
特に、たぐいまれな歌唱力はデビュー当時から定評があり、当時ラジオで彼の歌声を聴いた誰もが黒人歌手だと思っていたほどなんだとか。
移籍後トップスターに
その後1955年にエルヴィスは、RCAビクターと契約。
翌年発表した6枚目のシングル『Heartbreak Hotel(ハートブレイク・ホテル)』で、初めてビルボード1位を獲得し、そこから一気にスター街道を駆け上がりました。
また、彼は映画俳優としても数多くの作品を残していて、主題歌も有名な「Blue Hawaii(ブルー・ハワイ)」を筆頭に、ドキュメンタリーを合わせると計34本の映画に出演。
ただし、楽曲のすばらしさと映画のクオリティーが必ずしも一致しなかったのは、映画でトム・ハンクスが演じた悪徳マネージャー、トム・パーカーのマネジメントが影響していると考えられます。
一時は、そうした駄作映画やビートルズの登場により、苦戦を強いられたエルヴィス。
しかし、1968年のテレビライブでその人気に再び火が付き、翌年以降は年間平均125回のライブを開催するまでに。
どの公演もチケットは完売で、死後スタート予定だったツアーも、最終日以降の追加公演が決定していたほどでした。
これも映画のために作られた曲のひとつ↓↓↓のちにボブ・ディランやU2、UB40などたくさんのアーティストがカバーしています。
セカンド・ブレイクのきっかけになった、そのテレビライブがこれ↓↓↓
エルヴィス・プレスリーを支えた人々
どんなスターにも、その背中を支える重要な存在があるものです。
エルヴィスのうしろには、どんな人たちがいたのでしょうか?
母:グラディス・ラブ・プレスリー(Gladys Love Smith Presley)
出産した双子の片方を亡くした母グラディスは、生き残ったひとり息子に「今日あなたがあるのは、亡くなったあの子のおかげ」と言い聞かせて育てました。
そのため、エルヴィスは極端に自信のない内気な青年に。
高校の文化祭では、みんなの前で披露するはずだった歌を歌えずに引っ込んだというエピソードも。
足を震わせて歌うあのスタイルも、本人が晩年「あれは緊張して震えるのを隠すためだった」と語っていたから驚きます。
大スターになってからも、ことあるごとに何でも母親に相談していたようです。
また、愛情というよりもはや依存レベルで息子に執着していたグラディスのせいで、エルヴィスは性的なものを感じさせる女性が苦手でした。
少年時代に近所に住んでいた女の子から、成功した後に知り合ったハリウッド女優にいたるまで、母親がいっさい寄せ付けなかったというのも有名な話。
インディーズデビューは、母親を喜ばせるために歌を吹き込んだ贈答用レコードがきっかけなんだって。
妻:プリシラ・アン・ボーリュー(Priscilla Ann Beaulieu)
そんな母親が急逝した直後に現れたのが、プリシラ・アン・ボーリューです。
2人の出会いは、エルヴィスが兵役のため訪れていたドイツ。
当時プリシラはまだ14歳の少女で、米軍の空軍大尉である母親の再婚相手とともに家族でドイツに住んでいたのです。
つまり、彼女の継父はエルヴィスの上司。
娘より10歳も年上のエルヴィスとの交際に、最初のうちプリシラの母も継父も反対していたのだそう。
しかし、いろんな条件を飲んだうえで遠距離交際をつづけた結果、1967年にエルヴィス32歳、プリシラ21歳のときにめでたく結婚しました。
翌年にはひとり娘、リサ・マリーも誕生しています。
ところがそんな幸せも長くは続かず、お互いの浮気(!)などもあって1973年に離婚。
とはいえ、離婚後も二人は決して悪い関係ではなかったようで、プリシラはエルヴィスの死後エルヴィス・プレスリー・エンタープライズの会長を務めました。
マネージャー:パーカー大佐(Colonel Thomas Andrew Parker)
母親と同じくらい、エルヴィスが人生で依存せざるを得なくなった人物が、パーカー大佐ことトム・パーカーでした。
サン・レコードの創設者サム・フィリップスらが、エルヴィスをさらに売り出すため、すでに実績のあったパーカー大佐に協力を依頼。
最初は乗り気ではなかったという大佐ですが、エルヴィスが金になるとわかった途端、両親に取り入るなどしてサン・レコードとの契約を切らせたのです。
そしてフィリップスをはじめとする、エルヴィスの初期を支えたメンバーを引き離すことに成功。
彼が自分から離れられないよう仕向けて、利益をできるだけ独占していました。
一説によると、50~70%を自分の取り分にしていたというから、「悪徳マネージャー」との呼び声が高いのも納得です。
永住権を持たない移民である彼が、一度国外へ出ると再入国できない恐れがあったためと見られています。
キング・オブ・ロックンロールの伝説
スーパースターには、驚くようなエピソードがつきものです。
エルヴィス・プレスリーの数ある伝説の一部をご紹介しましょう。
輝かしい記録の数々
リトル・リチャードやチャック・ベリーと並んで、ロックの誕生と普及に大きく貢献したエルヴィス・プレスリー。
わずか42年の生涯で、およそ700曲もの楽曲を世に送り出しました。
その輝かしい功績から「キング・オブ・ロックンロール」と称され、今もなお音楽界に多大なる影響を与え続けています。
・ギネス「史上最も成功したソロ・アーティスト」認定
・ギネス「最多ヒットシングル記録(ビルボードtop100へのエントリー回数151回)」認定
・ギネス「1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(逝去翌日2,000万枚以上)」認定
・ロックの殿堂入り(1986年第1回)
・ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト第3位
・Q(英国音楽雑誌)が選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー第1位
さすが「キング」と呼ばれるだけあって、彼はここに書ききれないほどの記録を残しました。
↓↓↓そんなキングのイイトコ取りベスト盤↓↓↓
エルヴィスの魅力
エルヴィスのイケメンぶりをさらに引き立てているのが、その個性的なファッション。
特に彼がよく着ていた開襟シャツや、後ろに撫で付けたヘアスタイル「ダックテール」は当時、世界中の若者の間でブームとなりました。
ちなみに、今でもそっくりさんやモノマネタレントが着ている、「袖にフリンジ(ひらひらしたひも状のあれ)がついた白いジャンプスーツとサングラス」という出で立ちですが、実際に本人が着たのはたったの1回。
しかも、サングラスはしてなかったのだとか。
また、エルヴィスといえば腰を小刻みに揺らし、くねくねしながら歌う独特なパフォーマンスが印象的。
デビュー当時「Elvis the Pelvis(骨盤エルヴィス)」と呼ばれたこの動きに、特に若い女性は熱狂しましたが、大人たちからは卑猥だという非難の声も。
人気テレビ番組エド・サリヴァン・ショーに出演した際も、下半身をカットして放送するという異例の対応がなされました。
このとき↓↓↓はまだ全身映ってますが、次の出演時には上半身だけのカメラワークになっています。
早すぎる死
ご存じのとおり、エルヴィスは42歳という若さでこの世を去りました。
それは1977年8月16日のこと。
自宅の2階にあるバスルームで倒れているところを恋人が発見し、すぐに病院に搬送されましたが、助けることはできませんでした。
検死後の公式発表では、処方薬の極端な誤用による不整脈となっていますが、遺伝性の病気や摂食障害、過度の便秘など、さまざまな説が飛び交っています。
最後にこの名曲を↓↓↓ソフトな声に癒されますね。
エルヴィスの人生を映画でも振り返ろう↓↓↓