今回は、そんな後世に歌い継がれる名曲を作った天才アーティスト、マーヴィン・ゲイをご紹介します。
まずはその『What’s Goin On』のリリック・ビデオをどうぞ↓↓↓イマドキのオサレなアニメと歌詞で、初めて聴く日本人にも曲の内容がわかりやすいはず。
マーヴィン・ゲイってどんな人?
生い立ちからレコードデビュー、スターになった後どのような最期を迎えたのか…。
まずは、マーヴィン・ゲイのプライベートからたどってみましょう。
少年期
マーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye / Marvin Pentz Gay Jr)は、1939年4月2日ワシントンD.C.生まれ。
父マーヴィン・ゲイ・シニアと母アルバータの長男で、2人の姉と1人の弟がいる4人兄弟でした。
父親がペンテコステ派の熱心な説教師だったため、兄弟たちは宗教的な規則を厳密に守らなければならず、父親は絶対的な権力で家庭内を支配。
やがて、マーヴィンが不条理な父親の考え方に反発するようになると、繰り返し体罰を受けるように。
自宅がスラム街にあったこともあり、「ふつうの子ども時代を楽しむことはできなかった」とマーヴィンはのちに振り返っています。
3歳の頃から教会で歌わされていたマーヴィンですが、高校生になるとドラムやピアノ、ギターを次々にマスター。
プロを志し学校を中退しましたが、父親の反対にあい、空軍に入隊したもののおよそ1年で除隊しました。
モータウン契約と結婚
除隊後いくつかのドゥーワップグループに参加して、ボーカルやコーラスの実力をつけていたマーヴィン。
1960年デトロイトで、ソングライター兼プロデューサーをしていたベリー・ゴーディ・Jr.との運命的な出会いを果たします。
ゴーディは翌1961年に自身のレーベル「モータウン」を設立し、マーヴィンもそこでシンガーとして契約。
翌年には、4枚目のシングル『Stubborn Kind Of Fellow(スタボーン・カインド・オブ・フェロー)』が、初チャートインしました。
プライベートでもゴーディの実姉アンナと急接近し、1963年にはめでたくゴールイン。
マーヴィン24歳、アンナ41歳という年の差カップルの誕生でした。
ちなみに、このアンナという女性ですが、結婚前からマーヴィンの才能を褒めては励まし…というなかなかのアゲマン。
『God Is Love』をはじめとするいくつかのマーヴィンの曲は、アンナとの共同制作によって生まれたものです。
悲しい最期
マーヴィン・ゲイといえば、悲劇的な最期をむかえたミュージシャンのひとり。
商業的な成功とは裏腹に金銭問題やうつ病、ドラッグ中毒といった困難を抱えていました。
2度の結婚と離婚も経験し、44歳になっていた1983年ころからは、健康的な生活を取り戻すためにロサンゼルスで両親と暮らすことに。
ところがそこは、お世辞にも健康的とは言えない環境でした。
コカインでハイになる息子がいる隣の部屋では、その父親がウォッカで泥酔…。
マーヴィンのよき理解者であった母アルバータの心配が、不幸にも的中する日がやってくるのです。
それは1984年4月1日に起こりました。
父マーヴィン・シニアが、保険の書類を失くしたといってアルバータを責めたことをきっかけに、母をかばうマーヴィンと大げんかに。
激高した父はリヴォルヴァーを手に取り、息子めがけて至近距離から2発発砲。
胸部と肩に命中し、マーヴィンは病院に運ばれる前に絶命していました。
マーヴィンの45回目となる誕生日の前夜のことでした。
マーヴィンは晩年、父親についてこう語っています。
「僕は歌うことで父の愛情を勝ち取れると思った。
だから、心の底から歌ったよ。
だが、上手くなればなるほど、彼の要求は大きくなった。」
そんな彼の数ある曲の中で、最も売れた『I Heard It Through The Grapevine(悲しいうわさ)』↓↓↓
マーヴィン・ゲイってこんな人
ここまで彼の人生をプライベートに焦点を当てて振り返りましたが、ここからは彼の天才アーティストとしての魅力をご紹介したいと思います。
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ダンスは苦手?
マーヴィンは常に自身の心を削り取って、それを形にしたものをリリースするタイプのミュージシャン。
真面目な彼は、レコーディングでのクオリティをライブのステージでも再現しなければならないと考えていました。
ところが、にもかかわらずダンスが得意ではなかったため、ファンに最高のパフォーマンスが提供できないと悩んでいたようです。
もともと内気で自分に自信のない性格だったマーヴィンは、ステージ上で緊張してしまうことも珍しくなく、ライブ嫌いで有名だったのだとか。
とはいえやっぱり音楽の才能は本物で、ボーカルだけでなく楽器も得意だった彼は、モータウンのレコーディングセッションでドラムを担当したことも。
また、作曲家としてマーサ&ザ・ヴァンデラスやマーヴェレッツに曲提供もしています。
さらに60年代からは、プロデューサーとしての才能も開花。
グラディス・ナイト&ザ・ピップスや、オリジナルズの成功に大きく貢献しました。
モータウンは当時から、ダンスや立ち振る舞いのレッスンシステムをいち早く確立してたよね?
職人気質というか、アイドル色に染められるのがイヤだったのかもしれないね。
モータウンのプリンス
セクシーな声質だけでなくビジュアルの良さもピカイチだったマーヴィンは、多くのスターを抱えるモータウン・レーベルの中でも王子さま的な存在で、女性から高い支持を得ていました。
そんな状況を見逃さないのが、敏腕社長ゴーディ。
レーベルメイトとデュエットさせることを思いつき、当時最も売れていたメアリー・ウェルズ、そして実力派のキム・ウェストンとの組み合わせが、いずれも期待通り大成功をおさめました。
特に3人目のパートナー、タミー・テレルとは双子のように相性ばつぐん。
数々のヒット曲を生み出したことで、マーヴィン自身もトップスターとしての地位を確固たるものに。
中でも、1967年リリースの『Ain’t No Mountain High Enough(エイント・ノー・マウンテン・ハイ・ナフ)』は、ソウル・ミュージック史に残る傑作です。
加えて、タミーはそれまでジェームス・ブラウンのバックバンドのメンバーとして、何度もライブをこなしてきた優秀なパフォーマー。
そんな彼女と一緒にステージに立つことで、マーヴィンはようやく、堂々とスポットライトを浴びることができるようになったのです。
ところがそんな充実した日々は長く続かず、1970年3月タミーは悪性脳腫瘍のためこの世を去ってしまいます。
曲の良さは言うまでもありませんが、キュートなタミーにも心うばわれます↓↓↓
What’s Going On
タミーが病に伏せたことは、彼女とのデュオだけでなく、マーヴィンのソロ活動にも影響を与えました。
作品はダークな印象となり、レコーディングされた歌声はより内省的に感じられます。
そしてタミーの死や、実の弟がベトナム戦争に従軍していたことなどを背景に制作されたアルバムが、名盤『What’s Going On(ホワッツ・ゴーイング・オン)』でした。
リリースに際してはゴーディ社長が、「政治的・社会的メッセージの入った曲はラジオでかからないからダメだ」と反対していたそうですが、最終的に押し切る形で1971年に発売。
すると批評家から多くの称賛を受け、レコードは200万枚を超える大ヒットに。
先行シングル『What’s Going On(愛のゆくえ)』をはじめ、続く『Mercy Mercy Me(マーシー・マーシー・ミー)』と『Inner City Blues(インナー・シティー・ブルース)』もシングルカットされて、ヒットを記録しました。
身を削った創作活動
その後、1973年発売のアルバム『Let’s Get It On(レッツ・ゲット・イット・オン)』は前作を超えるセールスとなり、同年ダイアナ・ロスとのデュエットアルバム『Diana & Marvin(ダイアナ&マーヴィン)』も大成功をおさめます。
一方、この頃から妻アンナとの結婚生活に影が差し、17歳年下のジャニス・ハンターという新恋人の出現により、夫婦関係は絶望的なものとなりました。
女性2人との当時の関係は、ジャニスに捧げたアルバム『I Want You(アイ・ウォント・ユー)』、アンナに向けた『Here, My Dear(離婚伝説)』でそれぞれ赤裸々に語られています。
なお、アンナと離婚後にジャニスと結婚したマーヴィンですが、入籍後3年半ほどで再び離婚。
ジャニスとの間にもうけた長女ノーナ・ゲイは、その後92年にデビューして、歌手・女優として活躍しています。
おしまいは、環境問題をテーマにした『Mercy Mercy Me』をライブ・バージョンで↓↓↓