だれのなんて曲だろう?
その前に、『Lovin' You』もミニー・リパートンもピンと来てないそこのアナタ!まあ、まずは聴きなはれ↓↓↓
ミニー・リパートンについて
ミニー・リパートンといえば、誰もが認める「ホイッスル・ボイス」の名手。
ブレイク当時、一部メディアでも「ホイッスル・ボイスの女王」と称されていたようです。
そんな彼女の歌唱力の裏には、才能に甘んじない、しっかりとした音楽教育や下積み時代がありました。
子供のころから声楽を学ぶ
ミニー・リパートン(Minnie Julia Riperton Rudolph)は、1947年11月8日生まれ。
8人兄弟の末っ子として、シカゴのサウスサイドで育ちました。
先にバレエやモダンダンスを習っていましたが、歌の才能を見出した両親の勧めで、すぐに歌の道へ。
幼いころから、オペラの歌唱トレーニングを受けていました。
恩師にも、そのままプロのオペラ歌手になると期待をかけられていたのだそう。
ところがやがてミニーの関心は、ソウルやR&B、ロックといったほかのジャンルに移っていったのです。
レコードデビューと下積み時代
そんな声楽レッスンの甲斐あってか、ミニーはわずか14歳にしてチェス・レコードと契約。
4人組ガールズ・グループ「ザ・ジェムズ」の一員として、デビューします。
グループは何度か名前を変えるなどしましたが、残念ながら鳴かず飛ばず。
しかし、ミニーはこの頃チェスの受付係としても働きながら、エタ・ジェームスやチャック・ベリー、マディ・ウォーターズなど、数々の大物たちのバック・ボーカルを経験する機会に恵まれました。
1967年から1971年までは「ロータリー・コネクション」という、前衛的な音楽性を持つバンドのリードボーカルとして活動。
計5枚のアルバムをリリースしています。
そして1970年9月にようやく、GTRレコードからアルバム『Come to My Garden(カム・トゥ・マイ・ガーデン)』で、ソロデビューを果たしました。
プロデューサーは、バンド仲間だったチャールズ・ステップニー。
のちに、ラムゼイ・ルイスやEW&Fのプロデューサーとして活躍する人物です。
でも後年に注目が高まって、いまでは音楽評論家の間では傑作って言われてるよ。
ミニーのソロデビュー作は、モーリス・ホワイト(ドラム)、フィル・アップチャーチ(ギター)、ラムゼイ・ルイス(ピアノ)という豪華メンバーが演奏!代表曲↓↓↓
引退と復帰
ソロデビューから遡ることひと月前、ミニーはちゃっかり結婚していました。
お相手は、『Come to My Garden』で楽曲提供もしていた、作曲家でプロデューサーのリチャード・ルドルフ。
レコードセールスが振るわなかったこともあり、ほどなくしてミニーは家庭に入ることに。
子供2人を抱える母親業に専念し、数年間は事実上引退した状態でした。
しかし、そんな彼女を探し出したエピック・レコードのスタッフが、復帰を説得。
憧れのスティーヴィー・ワンダーと仕事ができると聞いたミニーは、エピックと契約することに。
そして、実際にスティーヴィーのバックバンド「ワンダー・ラヴ」にメンバー入りして、活動を再開したのです。
このとき彼女の声に惚れ込んだスティーヴィーが、ニューアルバムのプロデュースを快諾。
こうして作られたのが、2ndアルバム『Perfect Angel(パーフェクト・エンジェル)』でした。
個人的には2ndアルバムなら1曲目のこっちも推したい。音は悪いけど、彼女の実力に圧倒される貴重なライブ映像を刮目せよ↓↓↓
ガンとの闘い
名盤『Perfect Angel』の売り上げは、1974年8月のリリース直後はスロースタートでした。
しかし、翌4月発売の4thシングル『Lovin' You(ラヴィン・ユー)』が、アメリカのビルボードを含む24か国で首位を獲得したことで、状況が一転。
シングルもアルバムも、100万枚以上売り上げてゴールド・ディスクに認定され、ミニー自身も大ブレイクを果たしました。
ところが、このままスター街道を突き進むと思われた矢先の1976年、彼女は乳ガンを発症。
乳房を切除したもののガンは残り、余命6か月との宣告を受けたのです。
これに対し、もともと明るく前向きな性格のミニーは、闘病の事実を公表。
米国ガン協会のスポークスマンとして各地で講演を行い、大統領から表彰までされました。
苦痛は相当なものだったはずですが、一方の本業でも1978年まではツアーを敢行。
そのうえ、5thアルバム『Minnie(ミニー)』のレコーディングまでこなしていたから驚きです。
このアルバムが1979年5月にリリースされた翌月、ミニーはついに寝たきりに。
そして1979年7月12日、最愛の夫リチャードに見守られながら息を引き取りました。
31歳という若さでした。
アルバムにこだわらないアナタには、とりあえずベスト↓↓↓
Lovin' You誕生秘話
製作された際の裏話や、こんなに長い間愛され続ける理由など、ここからはいよいよ名曲『Lovin' You』の魅力についてお伝えしましょう。
オリジナルは娘のための子守歌?!
アルバム収録用として、ミニー&リチャード夫妻は8曲を用意していたそう。
しかし、それらを聴いてあと1歩なにか決定打が欲しいと考えたのが、名将スティーヴィー・ワンダー。
夫妻に、「いちばん恥ずかしい曲は?」と質問しました。
そこで2人が思いついたのが、ミニーが下の子を寝かしつけるときに歌っていた子守歌。
そう、なんとこれが傑作『Lovin' You』の原案になったのです。
最終的には、恋人やパートナーに向けたラブソングという形になりましたが、アルバムver.ではエンディングで「マヤ…マヤ…マヤ…」と、何度か娘の名前を呼んでいます。
スティーヴィー・ワンダーが偽名で参加
ミニーの復帰作ともいうべきアルバムを制作するにあたり、夫リチャードとの共同プロデュースを引き受けた大スター、スティーヴィー。
本作が無事に大ヒットを果たしたのも、前述の裏話のような、彼の優れたアイデアがあったからこそでしょう。
それだけでなく、全曲にわたって鍵盤やドラム、ハーモニカで演奏面からもバックアップ。
自身の楽曲レコーディングもそっちのけでサポートしたというから、かなり熱心だったようです。
しかし、当時おそらく最盛期を迎えていた彼には、大人の事情があったのも事実。
モータウンとの契約の縛りから「スティーヴィー・ワンダー」の名前が使えず、クレジットはすべて「エル・トロ・ニグロ(El Toro Negro)」というペンネームで記されています。
画期的なアレンジが魅力に
製作を始めた当初、『Lovin' You』は数パターンのバンドアレンジでレコーディングされました。
ところが、それに納得できなかったスティーヴィー先生。
デモテープで、ミニーがリチャードのギター1本で歌っていたことを思い出します。
音数を極端に削ったアレンジへと方向転換を決めた彼は、リチャードにデモと同じようにギターを弾かせ、自らもエレクトリックピアノでバッキング。
ブラック・ミュージックとしては異例ともいえる、ドラムもパーカッションもベースもない、シンプルなアレンジに落ち着きました。
とはいえ、優しく囁くようなリチャードのギターと、輝く光のようなスティーヴィーの鍵盤こそが、ミニーの歌声を最大限に引き出しているのは明らか。
さらにそこへ、最初の録音で偶然入ったことから採用されたという、鳥(マネシツグミ)のさえずりが、爽やかな心地よさを演出しています。
おすすめカバー5選
ご存じのとおり『Lovin' You』は、これまで世界各地で数えきれないほどカバーされてきました。
この先も、永遠のスタンダードナンバーとして愛され続けるでしょう。
カバーにも名盤がたくさんありますが、ここではボンジンミュージック的おすすめver.を厳選してご紹介します。
ダイアン・リーヴスver.
グラミー賞に5度輝くジャズ界の重鎮が歌うと、こんな仕上がりに。
外し方にも嫌味がなくて、ジャズ特有の難解さを感じさせないので、いつまでも聴いていたいと思わされます。
声質もアプローチもミニーとはまったく違いますが、こっちも非常に心地よき。
ジャネット・ケイver.
この曲が収録された‘91年のベストアルバムが大ヒットし、日本でも一躍有名になった彼女。
しかし元々‘77年にカバーしていて、母国イギリスのレゲエ・チャートでは首位を獲得していました。
心地よいリズムが、「ラヴァーズ・ロック(レゲエの一種)の女王」ならでは。
デイヴィッド・T・ウォーカーver.
ソウル、R&B、ジャズ…あらゆる黒いジャンルを弾きこなすカリスマギタリストによる、インストver.も紹介しておきましょう。
「セッションの名手」と呼ばれる彼にとってもこの曲はお得意なようで、ライブでもよく披露しているのだとか。
まさしく、いぶし銀プレイ。
アリアナ・グランデver.
数年前まで、アリがティーンアイドルだったなんて、もはや信じられない。
キュートな見た目を良い意味で裏切る実力の高さは、「ネクスト・マライア」なんて誉め言葉じゃ収まりません。
ゆるく歌いながら軽~くホイッスル行くとか、マジでパねぇ!
タック&パティver.
タック・アンドレス(ギター)とパティ・キャスカート(ボーカル)から成る、夫婦ユニット。
本業であるジャズという枠にとらわれない自由な発想で、驚きの演奏を聴かせてくれます。
特にカバー曲が秀逸なので、彼らのことを知らない人は他の曲も要チェキ!
スティーヴィーとデュエットver.の#3『Take A Little Trip』や、前述したバンドver.の#8『Lovin' You』を収録した2枚組デラックス版↓↓↓