天才クインシー・ジョーンズのハードな生い立ち
クインシー・ジョーンズは80歳をとうに超えた今でも第一線で活躍していますが、若い頃はショービズ界でもまだ人種差別が色濃く残っていた世代。
当然、クインシーもトップに登りつめるまでに経験した苦労は数知れず。
そもそも育った環境が、決して恵まれたものではありませんでした。
トランペットから始まったクインシーのキャリア
クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones / Quincy Delight Jones II)は1933年3月14日、ジャズとブルースの街シカゴに生まれ、シアトルに育ちました。
中学生くらいからトランペット奏者としてバンド活動はじめ、ゴスペル合唱団にも所属。
ボストンのバークリー音楽院を卒業後、1951年にはニューヨークに移り、本格的にキャリアをスタートさせます。
そして20歳のころ、ビブラフォンの第一人者ライオネル・ハンプトンのツアーメンバーとして、トランペット奏者/ピアニスト/アレンジャーとして参加。
そこでのアレンジ力が評価され、カウント・ベイシーやデューク・エリントン、サラ・ヴォーンといった、マーキュリー・レーベル所属スターの楽曲アレンジを手がけるように。
1957年にクインシーはさらに作曲や音楽理論を学ぶため、パリに渡りナディア・ブーランジェに師事。
ヨーロッパで数々のビッグバンドで成功をおさめた後、1963年にレスリー・ゴーア『It's My Party(涙のバースデイ・パーティ)』をビルボード1位に押し上げたのをはじめ、プロデューサーとしても活躍し始めます。
さらに1964年には、マーキュリー・レコードニューヨーク支社の副支社長に就任。
映画音楽の分野へも、活動の幅を広げていくのでした。
レトロかわいいレスリー・ゴーア↓↓↓『She's A Fool(ラッキー・ガール)』も、クインシーのプロデュースです。
ハードなエピソード揃いの幼少~青年期
最近のインタビューでも本人が、「冗談抜きに犯罪の本場」と表現していた1930年代のシカゴ。
天才音楽家が育ったのは、そんな街の中でも特にハードな家庭でした。
両親
大工をしていた父親は地元ギャングの一員でもあり、クインシーも人間の死体を初めて見たのは7、8歳のとき。
その頃ギャングにナイフで脅されたときの傷も、まだ残っているのだとか。
しかし、それよりもショックだったのは7歳のときでしょう。
ボストン大出身で12か国語を操る才女だったという母親が、統合失調症で精神病院に収容された時の様子は、いまでもはっきり覚えているそう。
そこから実質的に父子家庭で育ったことが、クインシーの心に暗い影を落としたのは言うまでもありません。
命拾い
クインシーが10歳のころ、家族でワシントン州シアトルに移住。
ここで音楽に出会い没頭したことが、その後の彼の人生を決定づけました。
ティーンのころから、年齢を偽って仲間たちと演奏のバイトをしていましたが、ある日演奏を終えていつものように乗り込んだ車がバスと衝突。
クインシーを除く仲間4人が全員命を落とすことに。
事故を振り返って彼は、「友だちの身体に手を伸ばしたら、首がポロリと転げ落ちた」と話しています。
彼だけがほぼ無傷の状態でしたが、それ以来クインシーは車の運転ができなくなりました。
天才とドラッグ
天才は天才を引き寄せるもので、クインシーがシアトルで音楽にのめり込んでいた14歳のころ、2歳年上の盲目のピアニスト、レイ・チャールズに出会います。
いうまでもなく2人はそこから長い付き合いになるのですが、2人ともドラッグを始めたのはこの頃から。
ライオネル・ハンプトンのツアーに参加していた当時も、クインシーは他のツアーメンバーたちとドラッグをやり、デトロイトに行くたびにあのマルコムXからドラッグを買っていたそう。
現在は立派なビッグ・ダディに
そんなヘビーな幼少期を過ごしたクインシーですが、大人になってからは4度も結婚。
愛人との間にできた1人を含めると、全部で1男6女もの子を持つビッグダディになりました。
美人そろいの娘たち中でも特に筆者ソメイが注目しているのが、5人目の子で女優となったラシダ・ジョーンズ。
ハーバード大卒の才媛で、自ら脚本と主演をつとめた映画「セレステ∞ジェシー」は、公開当初わずか4館での上映だったのが口コミで586館に拡大するヒットに。
日本でもミニシアター系を中心に話題を呼びました。
大人女子に刺さるラブストーリーの良作。はげしくオススメ↓↓↓
クインシー・ジョーンズの功績
クインシーをひと言で説明するなら、「1970年代以降の黒人音楽の発展に最も影響を与えた人物」だといっても過言ではないはず。
ここからは、彼の才能あふれる輝かしいキャリアをご紹介します。
EGOT
クインシーの活動を主だったところだけ挙げても、
・プロデューサー
・ジャズミュージシャン
・ソロアーティスト
・アレンジャー
・レコード会社の重役
・映画サウンドトラック作曲家
といったたくさんの肩書が。
プロデュースしたアルバムが売上世界一を誇るギネス記録保持者であり、グラミー賞は80回ノミネート、28回受賞という輝かしい記録だらけ。
しかし、クインシーの評価はそれだけにとどまらないことは、「EGOT」を成し遂げていることからも証明されています。
「EGOT」というのは、エミー/グラミー/オスカー/トニーというエンタメ界最高峰の名誉の頭文字をとった呼び方で、彼はこれらを全制覇した数少ない人物の一人なのです。
また最近は楽曲だけでなく、オーディオプロデュースも手掛けています。
JBLとコラボしたヘッドホンは「Q」のロゴ入り。
彼の声でユーザーに機能をお知らせしてくれるのもよき。
けっこうな人気商品ですが日本だともうなかなか手に入らないので、見つけたら即買い必至↓↓↓
オースティン・パワーズでお馴染みのこの曲↓↓↓もクインシー作。
そんな『Soul Bossa Nova(ソウル・ボサノヴァ)』↑を収録しているアルバムがこれ↓↓↓
クインシー・ジョーンズおすすめ作品集
ミュージシャンの素晴らしさは、やっぱりその楽曲を聴かないと伝わりませんよね。
というわけで、クインシーのおすすめ作品をジャンル別にご紹介しましょう。
ジャズ
もともと、ジャズミュージシャンとしてキャリアをスタートさせたクインシー。
前述のカウント・ベイシーやデューク・エリントン、サラ・ヴォーンだけでなく、アンディ・ウィリアムズ、ヘレン・メリル、エラ・フィッツジェラルドなど、挙げればきりがないほどたくさんのジャズ界の大物ミュージシャンたちと楽曲を残しています。
ルーツとなる分野で関わった音楽なので傑作も多いのですが、ここでは個人的に親交の深かったフランク・シナトラとの曲をライブで。NASAの50周年祝賀会で『Fly Me To The Moon』の指揮をするクインシーと、晩年のシナトラ。
マイケル・ジャクソン3部作
天才プロデューサーとしての地位を不動なものとしたのが、なんといってもマイケルとのコラボでしょう。
売り上げ世界一のギネス記録を打ち立てた伝説のアルバム『Thriller(スリラー)』を含む、『Off The Wall(オフ・ザ・ウォール)』と『BAD(バッド)』の3作品において、大スターMJの黄金時代を支えました。
音楽界で天才と天才がこれだけ見事に化学反応を起こした例は、他にないかもしれませんね。
↓↓↓クインシーのプロデュースした曲は、イントロだけで何杯でもごはんが進みますw
その他
ミニ・クーパーが活躍する映画「ミニミニ大作戦」やウーピー・ゴールドバーグがデビューしたスピルバーグ作品「カラー・パープル」をはじめ、天才クインシーは数々のサントラも手掛けています。
さらに自身の名義でもヒット作も何枚も生んでいて、オースティン・パワーズで有名な『Soul Bossa Nova(ソウル・ボサノヴァ)』や、大島渚監督の映画にインスパイアされたという『Ai No Corrida(愛のコリーダ)』は日本でもヒットしました。
もちろんマイケル以外の楽曲でも、ポップやR&Bのチャートで多くの結果を残しているクインシー。
チャリティーソング『We Are The World』のプロデューサーとして、彼の存在を知った人も少なくないでしょう。
また、ジョージ・ベンソンやブラザーズ・ジョンソン、ルーファス&チャカ・カーン、ドナ・サマー…クインシー作品とは気づかずに、今まで楽曲を耳にしている人も多いかもしれません。
それほど彼のプロデュースは多岐に渡るのです。
クインシーの出身校“バークレー音楽院”の生徒たちによる『愛のコリーダ』↓↓↓歌も演奏も初々しいですが、ここから未来の大スターが生まれるかも。
『愛のコリーダ』オリジナルver.収録の名盤はコレ↓↓↓
努力する人だから、才能のある人が周囲に集まるのかもしれないよ。
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