
毒親だったり、恋愛や結婚がうまくいかなかったり。

でもコニー・フランシスほど、不幸てんこ盛りな人はいないかも。


彼女の曲はいまだにBGMやCMソングに使われるから、知ってる曲がきっとあるはず。
スターダムへの道のり
1950~60年代に活躍した世界的アーティスト、コニー・フランシス。
幼いうちからその才能を見出された彼女は、早くからショービズ界に足を踏み入れていました。
幼少期
コニー・フランシス(Connie Francis / Concetta Rosa Maria Franconero)は、1938年12月12日、ニュージャージー州にあるイタリア系アメリカ人の家庭に生まれました。
屋根職人だった父ジョージはアマチュア・ミュージシャンで、自身が果たせなかった夢を娘に託しました。
そのため、幼いコンチェッタが音楽学校に通い始めたのは、3歳にも満たないころ。
4歳にもなると、父の勧めでコンテストや地元のフェスなどに出演し、人前で歌やアコーディオンを披露していました。

代表曲『カラーに口紅』↓↓↓“カラー”は口紅の色(color)じゃなくて、襟(collar)のこと。日本語がおかしいわけじゃないからー。
子役スタート
そんなコンチェッタに転機が訪れたのは、12歳のとき。
人気テレビ番組「タレント・スカウト」で優勝したのです。
ちなみに、このとき番組の司会をしていたアーサー・ゴッドフリーの提案で、言いづらい本名「コンチェッタ・フランコネロ」から、芸名「コニー・フランシス」に改名。
アコーディオンを持つのもやめました。
そしてこの優勝をきっかけに、コニーはその後4年にわたって毎週、NBC放送の子供向け番組に出演していました。
運命の1曲
1955年、ジョージによる熱心な売り込みの結果、、16歳のコニーはMGMレコードと10曲のリリース契約を結ぶことができました。
『Freddy(フレディ)』という曲でデビューしますが、これを含む9枚のシングルはいずれも不発。
契約打ち切りを宣告されてしまいます。
レコード会社との契約が残り1曲となり、ジョージは、1920年代のスタンダード曲をカバーするよう、コニーに提案しました。
最初は断った彼女でしたが、父の強い勧めにより渋々レコーディング。
こうして1958年2月にリリースされたのが、『Who's Sorry Now?(フーズ・ソーリー・ナウ)』でした。
コニーの予想に反して、この曲はテレビの人気番組で紹介されたことをきっかけに、大ヒット。
発売から6か月のうちに100万枚を売り上げ、彼女をスターダムに押し上げたのです。
スターの仲間入り
そこから6年間が、彼女の最盛期といえるでしょう。
『Stupid Cupid(間抜けなキューピッド)』や『Lipstick on Your Collar(カラーに口紅)』、『Where the Boys Are(ボーイハント)』、『Vacation(ヴァケイション)』をはじめとする、たくさんの名曲をリリース。
ビルボードTop40に、35曲も送り込みました。
当時こんなに多くヒット曲を持っていたのは、彼女とアレサ・フランクリンだけ。
ただし、コニーは実力派アーティストというよりは、日本でいうアイドルのような、10代の子たちから支持される存在だったようです。
そのため、彼女は歌手としてだけでなく女優としても活躍していて、1960年代前半には、多くのティーン向け映画で主演をつとめています。
ちなみに、断続的ではあるものの、コニー・フランシスはいまでも現役のミュージシャンです。
名コンビ、ニール・セダカ&ハワード・グリーンフィールドの作った楽曲が、コニーにジャストフィット↓↓↓
コニーをはじめ、当時の人気者がそろった古きよきスタンダード集。オールディーズって飽きが来ないから不思議。
不幸が押し寄せすぎなプライベート
光が強いほど、影も色濃くなるもの。
世界的スター、コニー・フランシスとしての華やかな成功の裏で、コンチェッタ・フランコネロの人生はこれまで、常人には抱えきれない悲劇の連続でした。
毒親vs最愛の男性
早くからコニーの才能に目を付けて、マネージャーとしてサポートした父ジョージですが、本人にいっさいの決定を許さず、すべてをコントロールするタイプ。
仕事はもちろんプライベートまで、彼女の人生すべてにおいて支配的でした。
ようやく世間の注目を浴びるようになったころ、コニーは同じく期待の若手シンガー・ソングライター、ボビー・ダーリンと出会います。
曲作りを通して距離を縮めた2人は、すぐに恋仲に。
ところが、この交際にジョージは猛反対だったのです。
引き離された2人はその後もラブレターで愛を深め、駆け落ちまで考えていました。
しかし、それを知ったジョージは大激怒。
ボビーを殴り、二度と娘に会わないようにと銃で脅しました。
その後、ボビーは別の女性と結婚(のちに離婚)し、37歳という若さで心不全のため亡くなりました。

彼からのラブレターを、いまでも大切に保管してるんだって。
ショッキングな事件
その恐ろしい事件が起こったのは、1974年11月8日。
芸能活動より家庭を優先し、数年間セミリタイア生活を送っていたコニーが、本格復帰を果たした矢先のことでした。
音楽イベント出演のため宿泊していた、ニューヨーク州ジェリコのホテルに、ナイフを持った見知らぬ男が侵入。
彼女は強姦されたうえ、男が投げつけたマットレスの重みで窒息死しそうになったのです。
命までは奪われませんでしたが、彼女はセキュリティが適切でなかったとして、ホテルチェーンを訴え勝訴。
判決により、ホテル側に安全対策を見直しと、コニーに対する多額の賠償金の支払いが命じられました。
なお、犯人はいまだに捕まっていません。
事件の影と失声、弟の死
事件のあと、コニーは3番目の夫と離婚。
そのうえ重度のうつ病を患い、数年間ほとんど家から出られない状態に。
また、1977年には鼻の手術をしたことで、声を失うという悲劇にも見舞われました。
彼女は歌手の命ともいうべき声を取り戻すべく、さらに3回の手術を受け、結果的にまる4年も歌うことができませんでした。
と、ここまでネガティブな出来事が続きましたが、コニーの不幸はまだ終わりません。
1981年に、弁護士をしていた実の弟が、マフィアに殺害されたのです。
精神的なバランスを崩した彼女は、躁うつ病と診断され、精神病院への入退院を繰り返す事態に。
1984年には自殺未遂も起こしています。

つまりコニーは、同じ年に弟と元カレ、大切な男性2人を亡くしたのです。
4度の結婚と離婚
前述した恋人ボビーとの別れのあと、コニーも結婚しています。
それも4回。
最初の結婚は、1964年のこと。
お相手は、ホテルのプレスエージェント兼ディレクターのディック・カネリス氏。
4か月で離婚しました。
次の結婚は1971年で、ヘアサロンのオーナーであるイジー・マリオン氏と。
10か月後に離婚。
3回目が最長記録で、お相手のジョセフ・ガルジリ氏は、レストランや旅行代理店の経営者。
1973年から5年間続き、男の子1人を養子に迎えています。
そして、現在のところ最後が、テレビプロデューサーのボブ・パーキンソン氏との1986年の結婚。
8か月後に別れました。
永遠の愛を探し続けるコニーの名曲↓↓↓
コニー・フランシスの魅力
コニーがこれまで世界で売り上げたレコード枚数は、推定1億枚。
彼女はまた、ビルボードHot100で最初に1位を獲得した女性アーティストでもあります。

出典:IMDb
歌唱力
コニー・フランシスの人気の理由は、なんといってもやはり、「黄金の声(voice of gold)」と呼ばれるその特徴的な歌声にあります。
多くの曲が、ダブルトラッキング(同じ歌メロを重ね録りすること)になっているのも、彼女の声をより印象づける狙いだったかもしれません。
また、当時の曲は途中で転調するのがお約束でしたが、彼女はそんなアレンジにもベストマッチ。
伸びやかな高音が、聴く人の耳に心地よく響くのです。
さらに、コニーはビブラートの使い方も上手で、それがまた楽曲が心に残る一因だといえるでしょう。
なにリンガル??
コニーのヒット曲は当時、日本語のカバーver.もヒットしました。
中尾ミエの『可愛いベイビー(Pretty Little Baby)』や、弘田三枝子の『ヴァケイション(Vacation)』など、シニア世代には日本語の印象の方が強いかも。
そんなコニー自身も、過去にはさまざまな言語でセルフカバーをしています。
英語のほかに、彼女のルーツであるイタリア語やイディッシュ語、そこにドイツ語やスペイン語、日本語を含む、なんと12言語!
こうした異言語ver.は実に好評で、『sings ~ favorite(~語でお気に入りを歌う)』シリーズとして、7枚もリリースしたほど。
そんな彼女の言語能力の高さは、幼少期のころからでした。
イタリア系ユダヤ人地区に住んでいた時期があり、彼女はイディッシュ語をすぐにマスターしたといいます。
日本語うまっ!バックコーラスが原曲のままという手抜きが、いまとなってはイイ味↓↓↓
それでも生きていく
コニー・フランシスは前述したとおり、波乱万丈な人生を送ってきました。
これまでを振り返った彼女は、1984 年に自伝「Who's Sorry Now?」を出版し、ベストセラーに。
さらに、2017年にも2冊目の自伝「Among My Souvenirs」で、ショッキングな事件も含めた多くの出来事を、再び記しています。
また、自らも被害者である彼女は、1980年代には大統領の任命により、暴力犯罪対策本部の責任者として活動。
2010年には、精神ケアの非営利団体「メンタルヘルス・アメリカ」のスポークスマンもつとめました。

リアル“悲劇のヒロイン”てかんじ。

だけど、起用する脚本家がコニー本人の希望と会わなくて、結局は中止になっちゃった。

代表曲を集めたうえに日本語歌唱も入った、日本人用のベスト・オブ・ベスト!