ビートルズが60年代を代表するバンドなら、70年代を代表するのはクイーン。
そのくらい名曲がそろってるよ。
クイーンというバンド
まずは、クイーンの音楽とそれに対して意外と低い評価(!)、そして優秀な4人のメンバーをご紹介します。
クイーンの音楽
クイーン(Queen)は、イギリスが誇るレジェンド・ロック・バンド。
そのトータルセールスは3億枚とも言われ、今でも世界中に多くのファンを持ちます。
ウォール・ストリート・ジャーナル紙の「史上最も人気のある100のロックバンド」第3位、ローリング・ストーン誌が選ぶ「歴史上最も偉大なアーティスト100」では第52位(低くね?w)に、ランクイン。
もちろん、お馴染み「ロックの殿堂」入りも、2001年(遅くね?w)に果たしています。
ただし、ロックといっても彼らの楽曲は実にバラエティ豊か。
プログレッシブ・ロックやグラム・ロック、ヘヴィ・メタルはもちろん、オペラや、ときにはフォークやディスコにいたるまで、ジャンルを超えたさまざまなスタイルが取り入れられています。
この曲↓↓↓あたりから売れっ子バンドの仲間入りを果たしました。音の重ね方と絡まり具合が複雑…。そうだ、パンがないからケーキを食べよう!
もちろん、それ以前もノミネートには挙がってたけど。
メンバー
クイーンは全員がギターや鍵盤楽器を演奏できるという、優秀なメンバーが集まっています。
しかも、4人ともヒットシングルを作ってるんだから、またスゴイ。
名前 | 英語表記 | 誕生日 | 担当楽器 |
フレディ・マーキュリー | Freddie Mercury | 1946年9月5日 | ボーカル、ピアノ、ギター、キーボード |
ブライアン・メイ | Brian May | 1947年7月19日 | ギター、キーボード、ピアノ、ボーカル |
ロジャー・テイラー | Roger Taylor | 1949年7月26日 | ドラム、パーカッション、キーボード、ボーカル |
ジョン・ディーコン | John Deacon | 1951年8月19日 | エレキベースー、ウッドベース、キーボード |
フレディの死後も、ギターのブライアンとドラムのロジャーがバンドを継続。
フリーやバッド・カンパニーのメンバーだったポール・ロジャースや、人気オーディション番組「アメリカン・アイドル」で2人が惚れ込んだアダム・ランバートをボーカルに迎え、「クイーン+」名義で活動しています。
一方で「フレディ以外の声でクイーンの曲を演奏するなんて、考えられない」と言っていたベースのジョンだけは、しぶしぶ参加した1997年のライブを最後に、ファンの前に現れていません。
ブライアンにいたっては天文物理学の博士号を持つという、インテリ率の高さもクイーンの特徴かもね。
クイーンの歴史~’70年代編~
次に、クイーンのこれまでの歴史を振り返りましょう。
デビュー、そしてブレイクを果たした'70sの軌跡から。
結成からデューまで
もともと、ギターのブライアンとドラムのロジャーは、クイーン結成以前から「スマイル」というバンドで一緒に活動していました。
しかし、鳴かず飛ばずだったうえに、ベースボーカルが脱退。
その後任ボーカルとして加入したのが、バンドのファンだったフレディでした。
そんなフレディの発案により、1970年7月のライブからバンドは「クイーン」に改名。
さらに半年後には、定着しなかったベーシストもオーディションの末ジョンに決まり、こうしてクイーンの歴史が幕を開けました。
やがて彼らのライブは評判となり、1973年7月にEMIレコードから、シングル『Keep Yourself Alive(炎のロックン・ロール)』で念願のレコードデビュー。
その1週間後には、1stアルバム『Queen(戦慄の王女)』をリリースします。
ブレイク
デビュー作は、一部の批評家からは絶賛されたものの、セールス的には思わしくありませんでした。
しかしながら、クイーンの特徴である複雑な演奏やファンタジーな歌詞、そしてフレディのオペラ歌唱と派手なキャラは、徐々に世間の注目を集めるように。
すると、2ndアルバム『Queen II(クイーンⅡ)』が全英チャートで5位に、3rdアルバム『Sheer Heart Attack(シアー・ハート・アタック)』は2位にランクイン。
ヨーロッパの他の地域やアメリカでも、着実にファンを増やしていきました。
ボヘミアン・ラプソディ
が、クイーンの人気が不動のものとなったのはそのあと。
1975年発売の4thアルバム『A Night At The Opera(オペラ座の夜)』で、スターの仲間入りを果たします。
特に、このとき同時リリースしたシングル『Bohemian Rhapsody(ボヘミアン・ラプソディ)』は、全英チャートで9週連続1位を獲得。
彼らの代表曲のひとつとなりました。
この曲はシングルでは異例の6分を超える大作で、途中でアカペラ部分を挟んだ3部構成という、攻めた造りが魅力。
’70年代の彼らは、ほかにも『We Will Rock You(ウィ・ウィル・ロック・ユー)』や『We Are The Champions(伝説のチャンピオン)』、『Bicycle(バイシクル・レース)』など、数多くの名曲を世に送り出しました。
エモさに胸を打たれたのもつかの間、「ガリレオ~」で理解が追い付かなくなる、のにクセになる不思議↓↓↓
クイーンの歴史~’80年代から現在編~
つづいて、'80s以降の彼らの栄光と悲劇、そして現在の活躍をご紹介します。
No.1からの活動休止
クイーンは’80年代に入ると、デビュー以来ずっと拒み続けてきたシンセサイザーを使ったり、ホーンセクションを起用してダンス系に寄ったりなど、これまで以上にバラエティ豊かな音で、世間をあっと言わせます。
1980年発売の9thアルバム『The Game(ザ・ゲーム)』では、ついに全英でも全米でもNo.1を記録。
彼らの最大のヒット曲『Another One Bites The Dust(地獄へ道づれ)』が生まれたのも、本作からでした。
さらに、翌年にリリースしたベスト盤『Greatest Hits(グレイテスト・ヒッツ)』は、イギリス音楽史上もっとも売れたアルバムに。
ところがそんな矢先、1983年からクイーンは活動を休止。
翌年のアルバム発表まで、メンバーたちはソロ活動に専念していました。
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ライブ・エイド
クイーンの歴史を語るうえで絶対に外せないのが、ライブ・エイド(Live Aid)。
1985年7月13日に、エチオピアの難民救済を目的として、米英の2会場で行われたチャリティーイベントです。
別名「’80年代のウッドストック」とも呼ばれますが、その規模は本家をはるかに上回るもの。
ロンドンのウェンブリー・スタジアムには約7万2,000人が、フィラデルフィアのジョン・F・ケネディ・スタジアムには約9万人が訪れ、さらに150か国で19億(!)もの人々がテレビ視聴したといいます。
スティングやポール・マッカートニー、U2、エルトン・ジョンをはじめとする錚々たるメンバーの中で、クイーンは出演者最多の6曲を披露。
音楽史に残る圧倒的なパフォーマンスで、観客を魅了しました。
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でも、ライブ・エイドがあまりに評判良かったもんで、メンバーたちも活動を続けようと思えたみたい。
フレディの死
ライブ・エイドの翌年、クイーンは12作目のアルバム『Kind Of Magic(カインド・オブ・マジック)』をリリース。
アルバムツアーとして4人は欧州各地を回りましたが、フレディが参加したツアーはこれが最後となりました。
その後、メンバーたちのソロ活動が活発化したこともあり、バンド解散説がささやかれる中、彼らは13作目・14作目のアルバムを発表。
しかし、どちらのリリース後もツアーは行われなかったのです。
一方で、どんどんやつれていくフレディの姿を見たファンたちからは、以前から報じられているエイズ感染が真実で、それが悪化していると心配されていました。
そして、1991年10月に『Greatest Hits II(グレイテスト・ヒッツ2)』が発売された翌月、11月23日にフレディは記者会見を開きHIV感染を公表。
翌24日、エイズによる免疫不全が原因の気管支肺炎で亡くなりました。
45歳という若さでした。
フレディ亡きあと
世界中がフレディの死を悼む中、メモリアル・シングルとして再発売された『Bohemian Rhapsody(ボヘミアン・ラプソディ)』が、全英チャート5週連続No1に。
1992年には、ブライアン&ロジャー&ジョンの3人になったクイーンが、ロンドンで追悼ライブを開催。
どちらの収益も、エイズ慈善団体に寄付されました。
そして、再び注目が集まったクイーンは、フレディが死の直前に録音していた歌に3人が演奏を重ねる形でレコーディング。
『Made In Heaven(メイド・イン・ヘヴン)』と題して、1995年11月にリリースされたこのアルバムは、世界でおよそ2000万枚を売り上げる大ヒットとなりました。
フレディの遺作。紙ジャケット版が出たときは、朝焼けと夕焼けの2種類がありました。
復活と現在
さらに1997年1月、パリで行われたバレエのイベントに再び3人が集結し、エルトン・ジョンとともにフレディ追悼演奏を披露。
このままバンド復活が期待されましたが、残念ながらベースのジョンは、このステージを最後に表舞台から姿を消しました。
しかし、残されたブライアンとロジャーは断続的ではあるものの、前述のとおり、「クイーン+」として活動を継続中。
再編集の作品だけでなく、新曲もリリースしています。
また、テレビ番組やCMから、ロンドンオリンピックやエリザベス女王の祝賀会まで、ライブやツアーで演奏する以外にも、幅広く活躍しているのも面白いところ。
これからも形を変えながら、クイーンを残してくれるでしょう。
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”ミスター”クイーンこと、フレディ・マーキュリー
バンドの顔、つまりは”ミスター”クイーンといえばこの人。
さいごに、いまでも世界中に多くのファンを持つクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーについてお伝えしましょう。
フレディの魅力
歌や曲作りの才能だけでなく、フレディ・マーキュリーはパフォーマーとしても非常に優れていました。
ステッキ型のマイクを振り回したり、観客をあおって会場中を大合唱させたり。
こぶしを高く突き上げるあのポーズなんて、誰もが目に焼き付いているはず。
また、芸大出身らしい個性的なファッションも彼の魅力です。
初期のころは宝ジェンヌ王子さま風コスや、胸毛全開のレオタード、ゲイファッションのお手本ピタピタ黒レザーなど、細身の体系とロン毛を生かしたいで立ちでした。
そんな彼が、気づけばランニング姿の髭マッチョに。
黄色い短ジャケットとともに、彼のイメージとして連想する人も多いでしょう。
目でも耳でも、ファンを全力で楽しませてくれました。
前歯のひみつ
フレディの個性のひとつに特徴的な前歯がありますが、この出っ歯は口の奥にある4本の過剰歯(生まれつき人より歯が多くあること)が原因なのだとか。
子供のころは、「バッキー」(出っ歯のこと)と呼ばれてからかわれていたそう。
そのため、笑うときに手で口元を隠すなど、コンプレックスに感じていたようです。
ならふつうは歯列矯正をするはずですが、フレディに限ってはこれを生涯かたくなに拒否。
なぜなら彼は、自身の4オクターブの歌声はこの歯の形のおかげである、と考えていたのです。
実際に歯を矯正することで、発音や発声の仕方に影響が出る可能性もあるそうなので、出っ歯と引き換えに神様からあの素晴らしい歌声をもらったと考えれば、納得かもしれません。
運命の相手
今となっては、フレディがゲイだったことを世界中の人が知っていますが、彼が若いころは今よりも偏見がひどかった時代。
そんな時代背景もあって、彼は自分のセクシャリティを隠して、結婚しようとしていた時期がありました。
お相手はメアリー・オースティンという女性。
彼女が働く有名ブティックにフレディが訪れたのが、最初の出会い。
フレディ24歳、メアリー19歳のときでした。
間もなく交際をスタートさせた2人は、4年後に婚約。
ところが、フレディがメアリーに自身のセクシャリティを打ち明けたことをきっかけに、2人は婚約を解消。
ただし、その後も2人の関係は良好で、フレディに恋人ができてもメアリーが結婚しても、2人は親友であり続けました。
エイズになったフレディを支えたのも、メアリーでした。
また、フレディ亡きあとも「遺灰は誰にも知られない場所に蒔いてほしい」という彼の遺言を守り、いまも彼女は場所については一切口外していません。
実際の2人の関係は、映画で描かれてる以上に深いものだったかもね。
フレディのダメなところも憎めなくなる大ヒット映画。メアリーとの関係も見どころ。