そのパワフルなステージングから「セクシー・ダイナマイト」とか「ロックンロールの女王」とか呼ばれているんだ。
生い立ちからデビューまで
83歳で亡くなる直前まで、容姿もパフォーマンスも生き方も、すべてがパワフルだったティナ・ターナー。
8度のグラミー賞受賞、全世界でのレコード売り上げ2億枚、音楽史上もっとも多くのライブチケットを売り上げたソロ・アーティスト、として知られています。
そんな、栄光と名声の中に立ち続けるキャリアの長い彼女ですが、子どものころは決して恵まれたとは言えない家庭環境に育ったようです。
母が家を去った幼少期
ティナ・ターナー(Tina Turner / Anna Mae Bullock)は1939年11月26日、父親が働くヘネシー州の農場で生まれました。
子どものころから、地元のバプティスト教会で聖歌隊として歌っていましたが、アンナ(本名)が11歳のときに両親が離婚。
母親が自分たち子どもに何も告げずに家を出た、という悲しい経験をしました。
のちに当時を振り返って
「子どもはいつでも母親が必要よ。でも母は、私がいちばん母親を必要としている多感な時期に私を捨てて家を出て行ってしまったわ。」
と語っています。
2年後には父親が再婚。
アンナは祖母に引き取られて高校に通っていましたが、16歳のときにその祖母が急逝したため、セントルイスで暮らす母親と姉の元へ引っ越すことに。
そこで高校を卒業して、看護助手として働いていました。
アイクとの出会い
その頃からアンナと姉は、街にあるナイトクラブに頻繁に出入りするようになりました。
ザ・キングス・オブ・リズム(The Kings of Rhythm) のメンバーとしてステージに立つアイク・ターナー(Ike Turner)と出会ったのも、そんなクラブのひとつ。
バンドが聴衆をステージに上げて歌わせているのを見て、内心羨ましく思っていたアンナは、ある夜意を決してステージへ。
B.B.キングの『アイ・ノウ・ユー・ラヴ・ミー・ベイビー(I Know You Love Me Baby) 』を歌い上げました。
すると、そのパワフルで個性的な歌に感激したアイクが、アンナをバンドのバックボーカルとして採用したのです。
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アイク&ティナ・ターナー
20代の頃にはすでに、プロデューサーとして活動していたアイク。
私生活のイメージから嫌われ役の感がありますが、全盛期の彼の作曲やアレンジ、プロデュース能力の高さに文句のある人はいないでしょう。
彼が発掘したのちの大スターこそ、ティナ・ターナーだったのです。
ティナ・ターナー誕生
1960年のある日、バンドのレコーディングにメインボーカルが来なかったことがありました。
そこでアイクは、自身が書いた『ア・フール・イン・ラヴ(A Fool in Love)』をアンナに仮歌として歌わせて録音。
当初、テスト程度の軽い気持ちで録音させたアイクでしたが、アンナのボーカルの魅力に改めて衝撃を受け、彼女をバンドのメインにすることを決めます。
アイクは、アンナの名前を好きなテレビ番組の登場人物から取ってティナ、自分の姓と合わせて「ティナ・ターナー」と命名。
グループ名も、「アイク・アンド・ティナ・ターナー・レビュー(Ike & Tina Turner Revue)」に変更しました。
ちなみに、レコーディング当時はアンナは妊娠8か月。
お腹の子の父親は、バンドのサックス奏者レイモンド・ヒルでした。
一方のアイクも、この頃まだ前妻と結婚しており、そんな中でアンナに「ターナー」を名乗らせちゃうところがオラオラ系ですよねw
運命の曲『ア・フール・イン・ラヴ』をどうぞ↓↓↓
国民的スターに
再スタートを切ったバンドのファーストシングル『ア・フール・イン・ラヴ』は全米27位、翌年発売された『イッツ・ゴナ・ワークアウト・ファイン(It's Gonna Work Out Fine)』は14位。
どちらも、ビルボードR&Bチャートで2位というスマッシュヒットを記録しました。
そして黒人デュオでありながら、早くもこの時点でグラミー賞ノミネートという快挙を成し遂げます。
続く3枚目シングルもそこそこのヒットでしたが、彼らの人気は一気に加速。
というのも、アメリカのテレビ局ではこのころ若者向けの音楽番組が次々と制作されていて、それに目を付けたアイクが積極的に出演を引き受けていたのです。
ティナとコーラスの女性陣が織りなす下品でエネルギッシュなステージングや、アイクのブルースマン風の存在感がティーンを中心に支持を集め、やがてアイク&ティナ・ターナー・レビューは国民的人気を博しました。
1人目の息子クレイグ、そして2人の間に生まれた息子ロニーだけでなく、前妻の2人の息子たちアイクJr.とマイケルの世話も任されたため、仕事と子育てで大変な毎日を過ごしていました。
栄光と衰退
公私ともにパートナーとなった2人にとって、最大のヒット曲となったのが、1971年発売の『プラウド・メアリー(Proud Mary)』です。
もともとは、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)の1969年のヒット曲でした。
カントリー風の淡々とした歌と演奏のオリジナルと違い、アイク&ティナのバージョンは大人しく始まって中盤から一気に爆発するようなアレンジが魅力。
全米4位まで上昇し、グラミー賞も獲得しました。
ところが、順調だったグループのキャリアはこれを機に衰退の一途をたどります。
ティナはアルバムを発売したりミュージカルに出演したりと、ソロ活動を本格化。
一方のアイクはコカインを常用し、ティナへのDVも深刻に。
最終的にはティナはダラスでのショーの直前にホテルから逃げ出し、1976年にグループも解散しました。
ミドルテンポから激しくなる「待ってました!」感がたまらんっ!からの圧巻パフォーマンス↓↓↓
遅咲きのソロキャリア
わずか36セントと、ガソリンスタンドのクレジットカード1枚だけしか持っていなかったという、ほぼ無一文状態で離婚したティナ。
しかし、エネルギッシュな彼女が本領を発揮したのは、むしろここから。
40代になってから再度、ミニスカートとピンヒールでスターダムに返り咲きます。
プライヴェート・ダンサーからの復活劇
ティナは、バンド活動を続けていた頃すでに、2枚のソロ・アルバムを発表しています。
解散後も、1978年と1979年にアルバムを出しましたが、商業的に成功と呼べるほどの結果には至りませんでした。
そんな彼女に転機が訪れたのは1984年、45歳のとき。
楽曲提供者もいないほど厳しい状況だった中、5年ぶりに発売されたアルバム『プライヴェート・ダンサー(Private Dancer)』が、世界的な大ヒット。
中でも、『愛の魔力(What's Love Got To Do With It)』は全米1位を獲得。
他のシングルカットされた7曲もそれぞれにヒットし、ティナは再びグラミー賞を受賞する復活劇を見せたのです。
1986年には、自叙伝「私、ティナ(I, Tina: My Life Story)」を出版。
見事ベストセラーとなり、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムの星を贈られました。
もちろん音楽活動も順調で、同年にアルバム『ブレイク・エヴリ・ルール(Break Every Rule)』、1989年には『フォーリン・アフェア(Foreign Affair)』がヒット。
90年代以降も、ライブでのパワフルなステージングは圧倒的でした。
熟女になってもセクシー・ダイナマイトだね~!
↓↓↓「愛はそれとどんな関係があるの?」と繰り返し歌っています。大人の女性らしい切なさが表現された素晴らしい歌唱。
再婚そして息子の死
一方の私生活では、2013年にドイツのレコード会社重役を務めるエルヴィン・バッハと再婚。
新たな幸せを掴んだように見えたティナでしたが、2018年に最初の息子クレイグが自殺するという大きな不幸に見舞われました。
また彼女自身も、晩年はガンや脳卒中などさまざまな病気と闘っていたようです。
腎臓疾患と診断されたときは、ダンナさんが片方の腎臓を提供してくれたそう。
最期まで強かったティナでしたが、とうとう2023年5月24日、83歳でこの世を去りました。
数々の辛い経験を重ねた彼女ですが、生前
「さまざまな心の痛みを経験して、それを乗り越えるたびに強くなっていく自分を感じるの。
そして、今が生き残ってここにいま存在していることの意義を何とか理解できるようになった気がするわ。」
という前向きに語っていました。
彼女の人生を思うと、言葉の重みと底知れぬ強さを感じますね。
まだまだ活躍する姿が見たかったね。
これを観てから、あらためて彼女の歌を聴くのがオススメだよ。