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天才ミュージシャン&名曲

ポップな印象と真逆!不幸のデパート、コニー・フランシス

2023年12月12日

出典:Connie Francis Facebook → https://www.facebook.com/ConnieFrancisOfficial/

 

さくらだくん
さくらだくん
世界的に有名なミュージシャンて、プライベート複雑な人が多すぎない?
毒親どくおやだったり、恋愛や結婚がうまくいかなかったり。
ソメイP
ソメイP
そうだね、たしかに大スターの多くは何かしらの問題があるね。
でもコニー・フランシスほど、不幸てんこ盛りな人はいないかも。
さくらだくん
さくらだくん
こに~ふらんしすぅ??
ソメイP
ソメイP
‘50~’60年代に活躍したアーティストだよ。
彼女の曲はいまだにBGMやCMソングに使われるから、知ってる曲がきっとあるはず。

 

 

 

スターダムへの道のり

1950~60年代に活躍した世界的アーティスト、コニー・フランシス。

幼いうちからその才能を見出された彼女は、早くからショービズ界に足を踏み入れていました。

 

 

幼少期

コニー・フランシス(Connie Francis / Concetta Rosa Maria Franconero)は、1938年12月12日、ニュージャージー州にあるイタリア系アメリカ人の家庭に生まれました。

屋根職人だった父ジョージはアマチュア・ミュージシャンで、自身が果たせなかった夢を娘に託しました。

そのため、幼いコンチェッタが音楽学校に通い始めたのは、3歳にも満たないころ。

4歳にもなると、父のすすめでコンテストや地元のフェスなどに出演し、人前で歌やアコーディオンを披露していました。

 

 

ソメイP
ソメイP
本人よりもジョージ、つまり“ステージパパ”がかなり熱心だったようです。

 

代表曲『カラーに口紅』↓↓↓“カラー”は口紅の色(color)じゃなくて、えり(collar)のこと。日本語がおかしいわけじゃないからー。

 

 

子役スタート

そんなコンチェッタに転機てんきが訪れたのは、12歳のとき。

人気テレビ番組「タレント・スカウト」で優勝したのです。

ちなみに、このとき番組の司会をしていたアーサー・ゴッドフリーの提案で、言いづらい本名「コンチェッタ・フランコネロ」から、芸名「コニー・フランシス」に改名。

アコーディオンを持つのもやめました。

そしてこの優勝をきっかけに、コニーはその後4年にわたって毎週、NBC放送の子供向け番組に出演していました。

 

 

運命の1曲

1955年、ジョージによる熱心な売り込みの結果、、16歳のコニーはMGMレコードと10曲のリリース契約を結ぶことができました。

『Freddy(フレディ)』という曲でデビューしますが、これを含む9枚のシングルはいずれも不発。

契約打ち切りを宣告されてしまいます。

 

レコード会社との契約が残り1曲となり、ジョージは、1920年代のスタンダード曲をカバーするよう、コニーに提案しました。

最初は断った彼女でしたが、父の強いすすめにより渋々しぶしぶレコーディング。

 

こうして1958年2月にリリースされたのが、『Who's Sorry Now?(フーズ・ソーリー・ナウ)』でした。

コニーの予想に反して、この曲はテレビの人気番組で紹介されたことをきっかけに、大ヒット

発売から6か月のうちに100万枚を売り上げ、彼女をスターダムに押し上げたのです。

 

 

スターの仲間入り

そこから6年間が、彼女の最盛期といえるでしょう。

『Stupid Cupid(間抜けなキューピッド)』『Lipstick on Your Collar(カラーに口紅)』『Where the Boys Are(ボーイハント)』『Vacation(ヴァケイション)』をはじめとする、たくさんの名曲をリリース。

ビルボードTop40に、35曲も送り込みました。

 

当時こんなに多くヒット曲を持っていたのは、彼女とアレサ・フランクリンだけ。

ただし、コニーは実力派アーティストというよりは、日本でいうアイドルのような、10代の子たちから支持される存在だったようです。

そのため、彼女は歌手としてだけでなく女優としても活躍していて、1960年代前半には、多くのティーン向け映画で主演をつとめています。

ちなみに、断続的ではあるものの、コニー・フランシスはいまでも現役のミュージシャンです。

 

 

名コンビ、ニール・セダカハワード・グリーンフィールドの作った楽曲が、コニーにジャストフィット↓↓↓

 

古きよき時代のスタンダード集。オールディーズってきが来ないから不思議。

 

 

 

不幸が押し寄せすぎなプライベート

光が強いほど、影も色濃くなるもの。

世界的スター、コニー・フランシスとしてのはなやかな成功の裏で、コンチェッタ・フランコネロの人生はこれまで、常人にはかかえきれない悲劇の連続でした。

 

 

毒親vs最愛の男性

早くからコニーの才能に目を付けて、マネージャーとしてサポートした父ジョージですが、本人にいっさいの決定を許さず、すべてをコントロールするタイプ。

仕事はもちろんプライベートまで、彼女の人生すべてにおいて支配的でした。

 

ようやく世間の注目を浴びるようになったころ、コニーは同じく期待の若手シンガー・ソングライター、ボビー・ダーリンと出会います。

曲作りを通して距離を縮めた2人は、すぐに恋仲に。

ところが、この交際にジョージはもう反対だったのです。

 

引き離された2人はその後もラブレターで愛を深め、け落ちまで考えていました。

しかし、それを知ったジョージは大激怒だいげきど

ボビーを殴り、二度と娘に会わないようにとおどしました。

その後、ボビーは別の女性と結婚(のちに離婚)し、37歳という若さで心不全のため亡くなりました。

 

 

さくらだくん
さくらだくん
2人が付き合ったのは短い間だったけど、コニーにとってボビーは生涯しょうがい最愛の人。
彼からのラブレターを、いまでも大切に保管してるんだって。

 

 

ショッキングな事件

そのおそろしい事件が起こったのは、1974年11月8日。

芸能活動より家庭を優先し、数年間セミリタイア生活を送っていたコニーが、本格復帰を果たした矢先のことでした。

音楽イベント出演のため宿泊していた、ニューヨーク州ジェリコのホテルに、ナイフを持った見知らぬ男が侵入

彼女は強姦ごうかんされたうえ、男が投げつけたマットレスの重みで窒息ちっそくしそうになったのです。

 

命まではうばわれませんでしたが、彼女はセキュリティが適切でなかったとして、ホテルチェーンをうったえ勝訴。

判決により、ホテル側に安全対策を見直しと、コニーに対する多額の賠償金の支払いが命じられました。

なお、犯人はいまだにつかまっていません

 

 

事件の影と失声、弟の死

事件のあと、コニーは3番目の夫と離婚。

そのうえ重度のうつ病わずらい、数年間ほとんど家から出られない状態に。

また、1977年には鼻の手術をしたことで、声を失うという悲劇にも見舞われました。

彼女は歌手の命ともいうべき声を取り戻すべく、さらに3回の手術を受け、結果的にまる4年も歌うことができませんでした。

 

と、ここまでネガティブな出来事が続きましたが、コニーの不幸はまだ終わりません。

1981年に、弁護士をしていた実の弟が、マフィアに殺害されたのです。

精神的なバランスを崩した彼女は、そううつ病と診断され、精神病院への入退院を繰り返す事態に。

1984年には自殺未遂も起こしています。

 

ソメイP
ソメイP
1981年は、奇しくもボビー・ダーリンが亡くなった年。
つまりコニーは、同じ年に弟と元カレ、大切な男性2人を亡くしたのです。

 

 

4度の結婚と離婚

前述した恋人ボビーとの別れのあと、コニーも結婚しています。

それも4回

 

最初の結婚は、1964年のこと。

お相手は、ホテルのプレスエージェント兼ディレクターのディック・カネリス氏。

4か月で離婚しました。

次の結婚は1971年で、ヘアサロンのオーナーであるイジー・マリオン氏と。

10か月後に離婚

 

3回目が最長記録で、お相手のジョセフ・ガルジリ氏は、レストランや旅行代理店の経営者。

1973年から5年間続き、男の子1人を養子にむかえています。

そして、現在のところ最後が、テレビプロデューサーのボブ・パーキンソン氏との1986年の結婚。

8か月後に別れました。

 

 

永遠の愛を探し続けるコニーの名曲↓↓↓

 

 

 

 

コニー・フランシスの魅力

コニーがこれまで世界で売り上げたレコード枚数は、推定1億枚

彼女はまた、ビルボードHot100で最初に1位を獲得した女性アーティストでもあります。

 

 

歌唱力

コニー・フランシスの人気の理由は、なんといってもやはり、「黄金の声(voice of gold)」と呼ばれるその特徴的な歌声にあります。

多くの曲が、ダブルトラッキング(同じ歌メロを重ね録りすること)になっているのも、彼女の声をより印象づけるねらいだったかもしれません。

 

また、当時の曲は途中で転調するのがお約束でしたが、彼女はそんなアレンジにもベストマッチ。

伸びやかな高音が、聴く人の耳に心地よく響くのです。

さらに、コニーはビブラートの使い方も上手で、それがまた楽曲が心に残る一因だといえるでしょう。

 

 

なにリンガル??

コニーのヒット曲は当時、日本語のカバーver.もヒットしました。

中尾ミエの『可愛いベイビー(Pretty Little Baby)』や、弘田三枝子の『ヴァケイション(Vacation)』など、シニア世代には日本語の印象の方が強いかも。

そんなコニー自身も、過去にはさまざまな言語でセルフカバーをしています。

英語のほかに、彼女のルーツであるイタリア語やイディッシュ語、そこにドイツ語やスペイン語、日本語を含む、なんと12言語

こうした異言語ver.は実に好評で、『sings ~ favorite(~語でお気に入りを歌う)』シリーズとして、7枚もリリースしたほど。

 

そんな彼女の言語能力の高さは、幼少期のころからでした。

イタリア系ユダヤ人地区に住んでいた時期があり、彼女はイディッシュ語をすぐにマスターしたといいます。

 

 

日本語うまっ!バックコーラスが原曲のままという手抜きが、いまとなってはイイ味↓↓↓

 

 

それでも生きていく

コニー・フランシスは前述したとおり、波乱万丈はらんばんじょうな人生を送ってきました。

これまでを振り返った彼女は、1984 年に自伝「Who's Sorry Now?」を出版し、ベストセラーに。

さらに、2017年にも2冊目の自伝「Among My Souvenirs」で、ショッキングな事件も含めた多くの出来事を、再び記しています。

 

また、自らも被害者である彼女は、1980年代には大統領の任命により、暴力犯罪対策本部の責任者として活動。

2010年には、精神ケアの非営利団体「メンタルヘルス・アメリカ」のスポークスマンもつとめました。

 

 

さくらだくん
さくらだくん
これだけ大きな不幸が連続する人生も珍しいよね。
リアル“悲劇のヒロイン”てかんじ。
ソメイP
ソメイP
昔、グロリア・エステファンが映画化を進めてたんだ。
だけど、起用する脚本家がコニー本人の希望と会わなくて、結局は中止になっちゃった。
さくらだくん
さくらだくん
近い将来、今度こそ映画化してほしいなぁ。

 

代表曲を集めたうえに日本語歌唱も入った、日本人用のベスト・オブ・ベスト!

 

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