たとえば、ダニー・ハサウェイはいろんな曲をカバーしているけどどれもすばらしくて、オリジナル越えって言われているものも少なくないよ。
デビューまでの道のり
ダニー・ハサウェイがショービズ界に姿を現したのは、公民権運動やキング牧師の暗殺といった時代背景のあった70年代。
黒人音楽も過渡期にあった当時、彼の音楽はマーヴィン・ゲイやカーティス・メイフィールドとともに、「ニュー・ソウル」と呼ばれました。
中産階級で育ったエリート
ダニー・ハサウェイ(Donny Edward Hathaway)は1945年10月1日、イリノイ州シカゴで誕生しました。
生後まもなく両親が別居。
幼い彼を連れた母親は、ダニーの祖母マーサ・クラムウェルを頼ってミズーリ州セントルイスに移住します。
プロのゴスペル・シンガーだったマーサの影響で、ダニーも3歳ですでに教会の合唱に参加。
一方で6歳からはクラシック・ピアノを習い始め、すぐに作曲をするようになったのだとか。
優秀だった彼は、1964年に奨学生として名門ハワード大学に入学し、ピアノと音楽理論を専攻しました。
ポピュラー音楽に興味を持ち始めたのもこの頃で、学業の傍ら、ジャズピアニストとしてワシントンDCのクラブで演奏するように。
駆け出しミュージシャン時代
1967年に、ダニーは大学の後輩ユーラウラ・ドニールと結婚し、翌年には長女を授かります。
大学を中退した彼は、妻と娘(レイラ・ハサウェイ)を連れてシカゴに移住。
カーティス・メイフィールドのカートム・レーベルで、本格的にプロミュージシャンの道を歩き始めます。
主な仕事は曲アレンジでしたが、グループやデュエットで歌った曲がシングルリリースされたり、アレサ・フランクリンやステイプル・シンガーズなどの楽曲制作に携わったりなど、広く活躍しました。
ソロ・デビュー
その後カートムを離れたダニーは、他のレーベルで裏方の仕事を続けていました。
そんな中、キング・カーティスとの出会いが彼の運命を変えることに。
エレベーターでダニーが歌ったのを聴いて驚いたキングが、急いで彼をアトランティック・レコードに紹介。
そのおかげでダニーは、1970年にアルバム『Everything Is Everything(新しきソウルの光と道)』で見事ソロ・デビューを果たします。
初のシングル『The Ghetto(ゲットー)』は、ビルボードR&Bチャートで23位にランクイン。
黒人音楽の新時代「ニュー・ソウル」の代表格のひとりとして、一躍脚光を浴びるようになったのです。
もはや相方、ロバータ・フラックとのデュエットにも良作がたくさんあります。一番売れたのがコレ↓↓↓
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ダニー・ハサウェイの魅力
続いて、ダニー・ハサウェイが天才ミュージシャンと呼ばれる理由を探ってみましょう。
ニュー・ソウルの申し子
60年代終わり~70年代初期のアメリカ音楽界。
ベトナム戦争や公民権運動の影響からか、それまでのロックやハードロックから、キャロル・キングやジェームス・テイラーなどに代表されるシンガーソングライターへと、人々の注目が移っていきました。
黒人の苦難を歌ったブルースや彼らのアイデンティティを表現するソウル、誇りや怒りを表したファンクなどが主流だった黒人音楽にも、変化が訪れます。
70年代に入ったころ、マーヴィン・ゲイやカーティス・メイフィールドらが、これらの黒人音楽のエッセンクを引き継いだうえで、シンガーソングライター的なスタイルに進化させたのです。
黒人ミュージシャンといえば、かつては田舎出身で文字すら読めないブルースマン。
ところがこのあたりからは、都会で正規の音楽教育を受けたインテリのアーティストたちが主流になりました。
ダニーも、クラシックやジャズで得た知識や技術を使って自ら楽曲を作り、派手なパフォーマンスやシャウトは使わず、声そのものの力強さやあたたかさで訴えかけます。
既存の黒人ミュージシャンと異なるこのスタイルが、「ニュー・ソウル」と呼ばれる新ジャンルになったのです。
カバーの天才
ダニーの音楽は、白人アーティストの曲をカバーしたり、オーケストラをバックに起用するなど、それまでの黒人ミュージシャンにはない新しさがありました。
音楽理論を学んでいるからか、特にダニーは他人の曲をアレンジして自分色に染めるのが大得意。
ジョン・レノンやアル・クーパー、キャロル・キングなど、選曲にも彼の個性が感じられます。
人種やジャンルを超えて「良いものは良い」と、何でもリスペクトし吸収しようとする姿勢こそが当時は新しく、彼の音楽の特長だったといえます。
この曲も名カバーのひとつ↓↓↓本家レオン・ラッセルver.よりファンが多いかも。
黒人音楽らしさ
ダニー・ハサウェイの功績は、白人のソウル・ファンを増やしたことに留まりません。
オリジナル曲でもカバー曲でも、黒人たちをとりまく困難をテーマにした作品をいくつも残しました。
それが、彼が黒人層からも支持を得た理由のひとつ。
それぞれの曲が、違う角度から同胞たちに呼びかけるメッセージであったとともに、当時の社会や政治に疲弊していた国民全体に向けた応援歌のように聞こえなくもありません。
ゲットー(貧困地区)に住む少年に向けて、「ましな世の中になるさ」と励ます歌詞が胸に響く↓↓↓
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ダニー・ハサウェイが遺したもの
若くしてこの世を去ったダニー・ハサウェイ。
しかし、彼が遺したものは決して小さくありません。
モンスターアルバム「ライヴ」
ダニー・ハサウェイいちばんの傑作といえば、なんといっても『LIVE(ライヴ)』でしょう。
白人ミュージシャンの登竜門的な小さなハコで行われた、1971年8月と10月の公演の模様8曲が収められています。
リリースは翌1972年で、当時ビルボードR&Bチャートで4位を記録。
自身のソロ名義の中では最大のヒット作で、唯一のゴールドディスク認定アルバムにもなりました。
アレンジはもちろん、ボーカルも鍵盤も技術力が高く、ダニーがパフォーマーとしても優れていたことが一発でわかる神ライヴ。
1曲目『What’s Going On(愛のゆくえ)』からのオリジナル曲『The Ghetto(ゲットー)』への流れや、キャロル・キングの『You've Got A Friend(君の友だち)』で会場が一体化する大合唱など、聴きどころ満載です。
この曲の「マーヴィン盤とダニハサ盤どっちがいいか?」問題は、ミュージシャン飲み会の永遠の議題。バックもテクニシャンぞろい↓↓↓
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ダニー・ハサウェイの死
前述のアルバムの成功からも、若くしてミュージシャンとして最高点に達したと思われたダニーでしたが、うつ病を発症します。
1973年に妄想型統合失調症と診断されてからは、入退院を繰り返すことに。
音楽活動もセーブせざるを得ませんでした。
しかし、1977にはロバータ・フラックのアルバムにゲスト参加する形で、表舞台に復帰。
他のアーティストへの曲提供の仕事を経て、ロバータとのデュエットによるニュー・アルバムのレコーディングもスタートしていました。
そんな、本格復帰を控えていた1979年1月13日、ニューヨークのホテルから転落して死亡。
現場に争った形跡がないことから、自殺とみられています。
33歳という若さでした。
受け継がれるソウル
ダニーが残した数々の音楽は、いま聴いても古さを感じさせません。
本人の没後も高く評価されていて、アレクサンダー・オニールやアリシア・キーズ、ジョン・レジェンドをはじめ、後世のたくさんのミュージシャンにも多大な影響を与えています。
また彼の娘、長女レイラと次女ケニアも立派なミュージシャン。
レイラ・ハサウェイがジョー・サンプルと組んだこれ↓↓↓もほんっっとに名盤!!
妹のケニア・ハサウェイの方は、プレステ初期のゲームソフト「パラッパ・ラッパー」でサニーの声優をしてたみたいです。
貴重な姉妹デュエット↓↓↓パパとロバータの代表曲を歌ってます。がーさす!
一家に一枚のマストアイテム。この名盤がカバーソング全体の地位を向上させたはず↓↓↓