「ゴッド・ファーザー・オブ・ソウル」とか「ファンクの父」とか、敬意を込めていろいろな異名がついている音楽界の重鎮なんだ。
ジェームス・ブラウンの強烈な個性の背景にある生い立ち
一旦ステージに立つとファンキーでセクシー、しかしステージの裏では暴力的で自己中心的…
ジェームス・ブラウンは、良くも悪くも振り切ったキャラクターの持ち主でしたが、それには彼の幼少期が少なからず影響しているようです。
貧しく孤独な少年時代
JBことジェームス・ブラウン(James Joseph Brown, Jr.)は1933年5月3日、サウスカロライナ州バーンウェルに生まれました。
母親はアジア系とアフリカン・アメリカン(黒人)の混血、父親もチェロキー・インディアンの血が入っている家系だったようです。
JBはそんな両親が駆け落ちして生まれた子どもで、貧しい両親は森の中の小さなあばら屋に住んでいました。
しかし、間もなくそんな貧しさに耐えきれず母親が家を出ます。
父親は常に仕事で不在。
周囲にも家がなかった環境で、幼いJBは1日の大半をひとりで過ごしていました。
にもかかわらず、貧しさから抜け出せずにいたため、父親はオーガスタで売春宿を経営する叔母の家にJBを預け出稼ぎに行くことに。
ところが、オーガスタに移った後もJBの生活が良くなることはなく、着るものもろくに与えられないような生活でした。
店の常連客から、壊れたオルガンをもらったりギターを教えてもらったりして音楽を始めていたことが、その頃の唯一の救いだったといえるでしょう。
ここから一気に音楽の道に進んだのかと思いきや、当時の彼の夢はプロ・ボクサー。
野球も上手だったようです。
フレイムス結成
物心つく前から貧しい生活を強いられてきたJBが、大きくなるにつれ万引きや窃盗をはたらくようになったのは、当然の流れかもしれません。
そうしてある日、車上荒らしをしているところを現行犯逮捕。
15歳の彼に8年~16年という差別的な有罪判決が下り、教護院に収容されたのです。
ところが、これがのちの彼の大きな転機に。
服役中にJBは院内でゴスペル・グループを結成し、周囲の人気者になりました。
その後の彼の人生の大きな助けとなる友人、ボビー・バードと知り合ったのもこのゴスペルがきっかけ。
入所してから3年、仮出獄の際にボビーとその家族が家と仕事を世話してくれたおかげで、JBは教護院に戻ることなく、外の世界で生活できるようになったのです。
そして、JBがボビーのゴスペル・グループに加入する形で「フレイムス」を結成しました。
その後バンドは、「フェイマス・フレイムス」と名前を変えてキング・レコードと契約。
1956年には『Please, Please, Please(プリーズ・プリーズ・プリーズ)』で、レコードデビューを果たしました。
ミスター・ダイナマイトな音楽人生
昔から競争の激しいショービズ界といえど、これだけ浮き沈みの激しい大物も珍しいです。
続いて、帝王ジェームス・ブラウンの数奇な音楽人生をみていきましょう。
リトル・リチャードとのつながり
天才は周りが放っておかないというのは、まさに彼のこと。
友人ボビー・バードとの出会いにも運命を感じますが、もうひとり、JBの音楽人生を語る上で欠かせない人物がいます。
それが、『Long Tall Sally(のっぽのサリー)』などで知られるロックンロールの先駆者、リトル・リチャードです。
フレイムス時代、地元ではすでに一番の人気を誇っていたリチャードは強力なライバル。
リチャードから見ても、街の人気者だったフレイムスは驚異の存在だったはず。
ところが、彼がフレイムスを自分の事務所に推薦してくれたおかげで、フレイムスには安定した仕事が入るようになりました。
そこから知名度が上がり、フェイマス・フレイムスに改名した頃、彼らにレコード会社から声がかかったのです。
デビュー曲のヒットで、フェイマス・フレイムスは順調なスタートを切ったように見えましたが、その後ヒット曲はゼロ。
バンド名が「ジェームス・ブラウン&ザ・フェイマス・フレイムス」とクレジットされたことなどから、反発したメンバーは全員田舎に帰ってしまいました。
そんな苦境に落ち込むJBの耳に飛び込んできたのは、あのリトル・リチャードの突然の引退。
彼のツアーの穴を埋めることを依頼されて急遽、JBはリチャードのバックバンドとともに旅に出ることに。
その後、彼はこの時のツアーメンバーと帰ってきたフレイムスのメンバーから成る新しいバンドを結成。
ラストチャンスとなるシングルを録音しました。
こうしてできたのが、代表曲のひとつ『Try Me(トライ・ミー)』。
この曲がR&Bチャート1位のヒットとなったおかげで、彼は見事に崖っぷちから復活を遂げたのです。
栄光と衰退
ジェームス・ブラウンはやがて、1960年代末から1970年代初頭になるとキャリアの頂点を迎えます。
『Get Up (I Feel Like Being Like A) Sex Machine(セックス・マシーン)』や、『Soul Power(ソウル・パワー)』もこの頃のヒット。
しかし、バックバンドの大幅なメンバーチェンジがあったのも同時期、1970年3月のことでした。
テナーサックスのメイシオ・パーカーをはじめとするメンバーのほぼ全員が、給料に関するトラブルで脱退したのです。
その結果、ベースのブーツィー・コリンズらを中心とする新しいバンドを迎えることに。
JBの全盛期を支えた彼らは「The J.B.'s(JBズ)」と名付けられ、JBズ名義でもレコード・リリースするまでの人気者バンドになります。
しかし、やがてそんなJBやJBズの影響を受けた新しいバンドが次々にデビュー。
さらに、1975年頃からのディスコ・ブームに伴って、ファンクの父の人気は下降の一途をたどりました。
↓↓↓ゲロッパ!!
復活
が、そこで終わらないのが不死鳥ジェームス・ブラウン。
1980年に出演した映画「ブルース・ブラザース」で久々に世間の注目を集めると、そこから息を吹き返します。
精力的に映画出演やCDリリースをこなし、1986年にはロックの殿堂入り。
ラップ・ヒップホップのミュージシャンたちからもリスペクトされ、彼らに数多くサンプリングされました。
さらにグラミー賞特別功労賞をはじめ数々の賞を受賞。
地元でも、オーガスタ市長がオーガスタ9番街を「ジェイムズ・ブラウン大通り」と改名し、記念式典が行われるまでに。
いろいろなところでJBの音楽への功績が称えられ、彼の晩年は授賞式やフェスティバルへのゲスト出演が続きました。
ジェームス・ブラウンの功績と魅力
JBは2006年に亡くなる直前まで、病床でも仕事のことを気にしていたといいます。
時に強引なやり方には賛否ありますが、ここからは彼のスゴさや愛される魅力についてご紹介させてください。
ファンクの父
「音楽のジャンル分け18種と代表する人気アーティスト」のページでも説明しましたが、ジャンルの定義づけは非常に困難なもの。
しかし、ファンクという音楽が何たるかはJBを聴けば説明不要です。
ジミー・ノーランのカッティング・ギター、ホーンセクションをリズム楽器のように鳴らしたテナーサックスのメイシオ・パーカー、その弟でドラムスのメルヴィン・パーカーなど、優れたミュージシャンを従えたJB。
そこがまた、「ソウル」ではなく「ファンク」と位置づけされる重要な要素になっています。
『Papa's Got A New Bag(パパズ・ガット・ア・ブランド・ニュー・バッグ)』は、そんなJBファンクを決定づけた象徴的な曲で、これにより彼は白人層の人気も獲得しました。
↓↓↓PVがおしゃれにリニューアルされていますが、音源は当時のものです。
逮捕歴もダイナマイト
彼の人となりを振り返る上では、残念ながら逮捕歴は無視できません。
15歳の時の窃盗罪は前述したとおりですが、1988年には妻への暴力および薬物使用の罪で逮捕。
懲役6年の実刑判決を受けますが、2年半の服役で出所しています。
これが何ともハリウッド映画のような逮捕劇で、薬物吸引中に3人目の妻とケンカして暴行。
そのままマシンガンを持って家を飛び出したと思ったら、公衆トイレの便器に向かってそれを乱射。
さらに、駆け付けた警察と高速道路でカーチェイスを行った末に、ガス欠となりあえなく御用となったそう。
懲りずに1998年には薬物使用で、2004年には4人目の妻への暴力で逮捕されているため、叩かれても仕方ありませんね。
一度観たら忘れられないパフォーマンス
私生活はどうであれ、JBがいまだに多くのミュージシャンからリスペクトされているのは、ストイックな姿勢とハードワーカーなことが知られているからでしょう。
あまたのライバルたちに差をつけるため、彼はサウンドだけでなくダンスや衣装、MCなどの演出にもこだわり追及を続けました。
中でも有名なのが、「マント・ショー」なるパフォーマンス。
ショーが終わりに近づいた頃、JBがステージ上でバタっと倒れます。
それを助け起こし、彼の肩にマントをかけてステージから引き上げさせようとするうメンバー。
しかし、それを振り切ってJBは再びステージに舞い戻るのでした!という感動のストーリー。
JBの発案でプロレスラーの演出を真似たものだそうで、どうりで大した茶番なのですが、一度観たらクセになるから不思議w
また、最盛期は1年間に350日はステージに立っていたといわれるJB。
1本あたり2時間半のライブの間じゅうずっと動き回る彼は、毎回3~4kg体重が減ってしまうため、終わるといつも食塩剤やブドウ糖の静脈注射を打っていたのだとか。
この注射痕から当時ヤク中と勘違いされがちだったって話だけど、のちに逮捕されたことを考えると…どうなんですかね?w
とはいえ、働き者であることは間違いなさそうです。
お客さんの盛り上がりがハンパない。問題のマントショーは0:52くらいから↓↓↓
製作には、なんとあのミック・ジャガー(ザ・ローリング・ストーンズ)の名前も。