リアルな彼女の方が、主人公アリーよりむしろ頑張り屋さんかも。
幼少期から下積み時代
レディー・ガガといえば、史上もっとも売れたアーティストのひとり。
ですが、そのスター街道は決して穏やかな道のりではありませんでした。
実はお嬢様育ち
レディー・ガガ(Lady Gaga / Stefani Joanne Angelina Germanotta)は、1986年3月28日、ニューヨーク市マンハッタン生まれ。
両親は上中流階級のイタリア系アメリカ人で、ステファニー(ガガの本名)が4歳のころからピアノのレッスンに通わせていました。
才能があった彼女は、早くも11歳でジュリアード音楽院に合格。
両親は音楽の道を勧めていましたが、当時まだ音楽に強い関心がなかったステファニーは入学を辞退し、ローマ・カトリック系の私立女子校である聖心女子学院に進学します。
ところが、これがあのヒルトン姉妹も通った、いわゆる“お嬢様学校”。
ただでさえ、イタリア系というだけで差別されるのに、周りはみんな自分とは違って代々裕福な名家の子。
さらにチビでポッチャリ、大きな前歯が目立つ容姿もあって、彼女はいじめの標的にされていました。
飛び級入学からストリッパーに
辛い学校生活の一方で、ステファニーは音楽の勉強を続けていました。
13歳で初めてピアノ・バラードを作曲し、14歳になるとナイトクラブで演奏するように。
また、同時に映画研究所でメソッド演技法も学んでいたそうで、現在の彼女のパフォーマンスや演技に、大いに役立ったといえるでしょう。
そして2003年、17歳になったステファニーは、世界で20人しか早期入学できないニューヨーク大学芸術学校に入学します。
本格的に音楽を学びますが、自身の音楽活動を優先させるため、2年生の2学期に中退しました。
学校中退と同時に実家を出た18歳のステファニーは、当時なんとストリッパーとして生計を立てていたのだとか。
のちに本人も、当時を振り返って
「人気者だった。ステージでヘアスプレーに火を点けて、狂ったように踊ったの。
人間の真の自由を発見したわ。」
と語っています。
レディー・ガガ誕生
そんな矢先、音楽プロデューサーのロブ・フサリと知り合い、公私ともに協力関係に。
2人でデモ楽曲作りに明け暮れていました。
ちなみに、「レディー・ガガ」という芸名を名乗り始めたのもこの頃です。
こうして2005年19歳のときに、フサリがデモを送ったデフ・ジャム・レコードとめでたく契約。
ところが、わずか3か月で契約を解除されてしまいます。
失意のうちに実家に戻った彼女は、ネオ・バーレスク(ストリップよりパフォーマンス重視のセクシーなショー)に出演するように。
そこでDJ兼パフォーマーのレディ・スターライトに出会い、「レディー・ガガ&ザ・スターライト・レビュー」を結成。
なお、このスターライトこそ、その後のレディー・ガガのパフォーマンスに多大な影響を及ぼした人物だといわれています。
結局は和解に落ち着いたけど。
鮮烈デビュー
つづいて、満を持してのデビュー、そして一気にトップに登りつめた活躍の跡を振り返ってみましょう。
ソングライターからキャリア開始
ガガがユニット活動をしている間も、フサリは業界関係者にデモを送り続けていました。
その甲斐あって2007年11月、ガガはソングライターとして、インタースコープ・レコードの新規レーベルと契約。
ファーギーやブリトニー・スピアーズ、プッシーキャット・ドールズをはじめ、同レーベルに所属する数々の有名アーティストへ楽曲提供をしました。
すると、R&Bシンガーのエイコンや音楽プロデューサーのレッド・ワンなど、いち早くガガの歌唱力にも気づく業界人が現れ、パフォーマーとしての彼女と契約。
こうしてガガはL.A.に拠点を移し、自身のデビューに向け着々と準備を進めたのでした。
フェイム&モンスター
レディー・ガガのファースト・アルバム『The Fame(ザ・フェイム)』が、満を持してリリースされたのは、2008年8月のことでした。
イギリスやカナダなどではチャート首位をマーク。
1stシングル『Just Dance(ジャスト・ダンス)』と、続く『Poker Face(ポーカーフェイス)』の2曲も世界的ヒットとなり、グラミー賞を獲得する大成功となりました。
一躍スターの仲間入りを果たした彼女は、アルバムツアー中にその名声の裏側を表現する曲を書き、1stアルバムの再発盤『The Fame Monster(ザ・モンスター)』を発売。
20か国以上でナンバー1になった『Bad Romance(バッド・ロマンス)』や、ビヨンセをフィーチャーした『Telephone(テレフォン)』など、このアルバムからもいくつもの代表曲が生まれました。
全盛期とその後
2011年2月、次のアルバムからのリードシングル『Born This Way(ボーン・ディス・ウェイ)』をリリース。
アメリカではこの曲が、ダウンロード開始からわずか3時間で1位になり、そのほかの世界20か国以上でも首位を獲得。
「iTunesで最も早く売れたシングル」として、ギネス記録に認定されました。
5月には同名アルバムが発売され、こちらも全世界で800万枚以上を売り上げる大ヒットに。
またちょうどこの頃、フォーブス誌の「世界でもっとも影響力のあるセレブ100人」で1位に選ばれていて、当時がまさにレディー・ガガの最盛期といえるでしょう。
しかし、注目すべきはむしろそこから。
ジャズ界の大御所トニー・ベネットとのコラボや、ラスベガス名物のレジデンシー公演(しかも2種類連続)開催、幼いころからの夢であった女優デビューなど、次々と新たな挑戦を続けています。
彼女の表現の幅と引き出しの多さには、驚かされるばかりです。
2011年のシドニー公演でのパフォーマンス↓↓↓1曲に注ぐエネルギー量がエグい!
アルツハイマーとは思えないトニーとのコラボ第2弾。
ここがすごいよレディー・ガガ
実力者がひしめき合うアメリカのショービズ界の中で、なぜレディー・ガガが成功できたのでしょうか?
ここからは、彼女の幅広い才能をご紹介します。
ハウス・オブ・ガガ
レディー・ガガ最大の魅力といえばやはり、その奇抜な表現。
デヴィッド・ボウイやフレディ・マーキュリーのグラム・ロック、マイケル・ジャクソンやマドンナのステージング、アンディ・ウォーホールの芸術性などなど、音楽にパフォーマンスにアートに、さまざまなスターの影響が垣間見えます。
特にファッションは、母親の影響で幼いころから興味があったようで、いつも曲作りの最中に同時に衣装についても考えているそう。
そんな彼女が、自身のあふれるアイデアを実現するために設立したのが、「ハウス・オブ・ガガ」(ちなみにスペルは”Haus”というドイツ語)。
「クリエイティブ&マネジメント/ダンス/音楽」という3部門から成る、ガガの命ともいえるクリエイティブ・チームです。
サウンドや振り付けはもちろん、衣装やステージセットから小道具に至るまで、完璧主義者の彼女を多方面から支えています。
(生肉ドレスはあまりにも有名)
耳に残るサウンドと真似したくなるダンス、色づかいの印象的な映像…すべてがクセになる代表曲↓↓↓
むかし取材で「4万平方フィート(東京ドーム1個ぶんくらい)の倉庫に保管してる」って言ってたよ。
ジャズやカントリーもお手のもの
ファッションやビジュアルの表現に目が行きがちなレディー・ガガですが、忘れちゃいけないのが、彼女のミュージシャンとしての確かな実力です。
2014年には、ジャズ・アルバム『Cheek to Cheek(チーク・トゥ・チーク)』をリリース。
しかも、あのトニー・ベネットとのコラボということもあり、世間をあっと言わせました。
ガガの歌唱力の高さはトニー師匠も絶賛したほどで、アルバムはグラミー賞を獲得。
ライブ盤も発売され、2人はツアーにも出ました。
さらに、2016年にリリースした5thアルバム『Joanne(ジョアン)』では、サウンドもビジュアルもこれまでのような華美なイメージから一新。
カントリーの影響を感じさせるシンプルなソフト・ロック作品で、彼女のボーカルの良さを味わえます。
ジャズ界への進出とともにガガの実力が評価されたのが、2015年のアカデミー賞授賞式。すばらしい歌唱力で歌い切った、名作『サウンド・オブ・ミュージック』のメドレー↓↓↓
トニー世代に合わせたクラシカルなジャケ写もGood。
女優としても大活躍
レディー・ガガの底知れない表現力は、演技でも存分に発揮されています。
2015年、人気テレビドラマ『アメリカン・ホラー・ストーリー』で、念願の女優デビュー。
みごと、ゴールデングローブ最優秀女優賞に輝きました。
そして、彼女の女優としてのキャリアを決定づけたのが、日本でもヒットした映画『アリー/ スター誕生』。
1937年公開の『スタア誕生』のリメイクで、過去にはジュディ・ガーランドやバーブラ・ストライサンドもリメイクした名作です。
この作品でガガは、主人公アリーを好演。
ブラッドリー・クーパーとのデュエットもヒットし、映画・音楽ともに良作となりました。
アカデミー賞最優秀主題歌賞を獲得。
レディー・ガガが支持される3つの理由
キラキラ衣装の彼女もステキですが、結局は数々の苦労を乗り越えたその人間性が、人々を引き付けるのかもしれません。
①バックグラウンド
レディー・ガガの音楽やファッションには、ときにドラッグやセックス、政治や宗教を題材にした表現が含まれます。
そのため、国によっては曲の放送禁止や発売禁止、公演が中止になったことも。
しかし、エネルギッシュなパフォーマンスの裏には、いじめや薬物中毒、レイプといった自身の過去の辛い経験があります。
世界的スターになってからも、ケガや線維筋痛症に悩まされたり、(少なくとも)2度の婚約解消があったりなど、決して順風満帆だったわけではありません。
また、デビュー当時から自身がバイセクシュアルであるとカミングアウトしていて、そのため、同性愛者の人権を守る活動にも積極的です。
(ガガ様の内に潜むという男性、ジョー・カルデローネ)
②社会活動にも熱心
レディー・ガガが力を入れている社会活動は、LGBT支援だけではありません。
たとえば、2011年の東日本大震災のときには、即座にブレスレットをデザイン・制作し、世界中に呼び掛けて販売。
売り上げ金1億2,000万円+ポケットマネー1億2,000万円という、多額の寄付をしてくれました。
また、2012年には「ボーン・ディス・ウェイ財団」を設立。
主にメンタルヘルスの側面から、若者の健康な育成をサポートしています。
ほかにも、HIVに関する啓蒙活動やいじめ撲滅運動、貧困・ホームレス問題の支援をはじめ、さまざまな方面での社会活動に熱心です。
③ファンサがすごい
ガガが自らを「マザー・モンスター」、ファンのことを「リトル・モンスター」と呼んでいるのは有名な話。
彼女はこの呼び名を、自身の体(左の脇の下とひじの内側)にそれぞれタトゥーで刻んでいて、ファンへの思いの深さが伺えます。
また、出演イベントを観ようと夜通し並ぶファンのために、ピザやドーナツを差し入れたり、自ら出向いてサインや写真撮影に応じた、なんて神エピソードも有名です。
さらに、ファンと撮影した写真をTwitter(現X)に、感謝のメッセージとともにアップしたり、挙句はファン専用のSNS「リトル・モンスターズ.com」まで開設。
ガガの情報や画像を共有したり、メッセージをやり取りしたりできる、ファン同士の交流の場となっています。
これからも彼女の挑戦に注目だね。
からの、1周回ってダンス・ポップに原点回帰した6thアルバムはこちら。