ホイットニー・ヒューストンだね?
それじゃあ今回は、彼女の人生とキャリアを一緒に振り返ろう。
ホイットニー・ヒューストンの生い立ち
「The Voice」・「天使の歌声」などと称される唯一無二の歌声の持ち主、ホイットニー・ヒューストン。
まずはその恵まれた生い立ちと、初期のキャリアからみていきましょう。
誰もが認めるサラブレッド
ホイットニー・ヒューストン(Whitney Elizabeth Houston)は1963年8月9日、ニュージャージー州ニューアークに、ショービズ界で働く父と歌手をしている母のもと生まれました。
母シシー・ヒューストンは60年代に活躍したスイート・インスピレーションズのリード・ボーカルで、エルヴィス・プレスリーやアレサ・フランクリンのバック・ボーカルも務める実力派。
ほかにも、従姉妹にディオンヌ・ワーウィックやディ・ディ・ワーウィック、ジュディ・クレイなどがいる、歌手の多い一族です。
小さいときに父親から付けられたあだ名で、お転婆な女の子だったんだろうね。
デビューまで
そんな生粋のサラブレッドといえるホイットニーですが、幼い頃より母シシーからゴスペルを基礎にした歌唱指導を受けていました。
15歳になる頃には本格的にプロ歌手としての活動をスタートし、チャカ・カーンのバック・ボーカルなどをして経験を積みます。
また、容姿端麗のホイットニーだけあって、17歳頃からはファッション・モデルとしても活躍。
もちろん歌手活動も並行して続けていました。
そんな中、ホイットニーが出演するニューヨークのとあるナイト・クラブに、アリスタ・レコードの元社長、クライヴ・デイビスが訪れます。
彼女のパフォーマンスを目にしたデイビスは、なんとその場で契約。
満を持して、デビューが決まったのです。
10代らしいフレッシュさと声の伸びやかさ。そのため不倫の歌なのに悲壮感はありません↓↓↓
いきなりの大成功
ホイットニーのデビューに際して、デイビスとアリスタ社はかつてないほどの力の入れようで、優れた楽曲と優秀なプロデューサー集めに奔走したそう。
こうして、契約からおよそ2年が経った1985年2月14日、アルバム『Whitney Houston(そよ風の贈りもの)』でホイットニーは華々しくデビューを飾りました。
その甲斐あって、アルバムはいきなりの大人気。
2曲目のシングル『Saving All My Love For You(すべてをあなたに)』からは特に爆発的にヒットし、この曲を含む7曲を連続して全米シングルチャート1位に送り込むという快挙を達成しました。
- Saving All My Love For You(すべてをあなたに)
- How Will I Know(恋は手さぐり)
- Greatest Love Of All(グレイテスト・ラヴ・オブ・オール)
- I Wanna Dance With Somebody(すてきなSomebody)
- Didn't We Almost Have It All(恋のアドバイス)
- So Emotional(やさしくエモーション)
- Where Do Broken Hearts Go(ブロークン・ハート)
最終的に、アルバムは全米だけでも1,300万枚以上を売り上げ、ソロアーティストのデビュー作としては史上もっとも売れたアルバムとなりました。
第2の絶頂期
1987年の『Whitney(ホイットニーII〜すてきなSomebody)』、1990年の『I'm Your Baby Tonight(アイム・ユア・ベイビー・トゥナイト)』と、続く2作目・3作目のアルバムも大ヒット。
しかし、彼女の人生とキャリアの最大のピークが訪れるのは、そのあとのことでした。
映画『ボディガード』
1992年、自身の初主演映画『The Bodyguard(ボディガード)』が公開。
映画自体の成功もさることながら、サウンドトラックが全世界で4,500万枚を売り上げる大ヒットとなりました。
シングルカットされた曲の中でも、特に主題歌『I Will Always Love You(オールウェイズ・ラヴ・ユー)』は、全米シングルチャートで14週連続No.1。
アメリカ国内だけでも400 万枚のセールスとなり、ビルボード史上もっとも売れたシングルとなりました。
この記録もいまだに破られていません。
また、この曲でホイットニーはグラミー賞の「最優秀女性賞」と「最優秀女性ポップボーカルパフォーマンス」を獲得。
キャリアはまさに、最高潮のときを迎えたのです。
結婚と出産
そんな自身初主演映画がヒットした同じ年に、プライベートでは3年間交際していた5歳年下のR&Bシンガー、ボビー・ブラウンと結婚。
バッド・ボーイのイメージが強く、キャリアの落ち目にあったボビーとの結婚に当時、多くのファンからブーイングが起こりました。
そして翌年には、長女ボビー・クリスティナ・ブラウンが誕生。
一方の表舞台では、出産後も`95年に『Waiting to Exhale(ため息つかせて)』、`96年に『The Preacher's Wife(天使の贈りもの)』と、立て続けに映画に主演。
1作目ほどではないにせよ、いずれも商業的に成功をおさめ、それぞれのサウンドトラックもヒットしました。
この頃の彼女は、公私ともに順風満帆に見えていました。
`91年のスーパーボウルでの国歌斉唱。数々の人気アーティストたちがこなしている大役ですが、「史上最高!」との呼び声が高い↓↓↓
史上最も受賞歴のある女性アーティスト
ボンジンミュージックで取り上げる天才アーティストたちは、いずれもセールスはもちろん作品評価も高いため、権威ある賞を数多く受賞しているレジェンドばかり。
しかし、そんな彼らの中においても、ホイットニー・ヒューストンの受賞数は群を抜いています。
●グラミー賞(6回)
●ビルボード・ミュージック・アワード(16回)
●アメリカン・ミュージック・アワード(22回)
●エミー賞
●MTV VMA
●NAACPイメージ賞
●BET賞
●ソウルトレイン・ミュージック・アワード
などをはじめする数々の賞に輝いています。
そのため、当時すでに411もの受賞歴があった2006年には、「史上最も受賞歴のある女性アーティスト」としてギネス認定されました。
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女王の陥落
アーティストとしてだけでなく、ひとりの女性として、そして母としての幸せを掴んだかのように見えたホイットニー。
ところが、このときすでに彼女の人生は望まない方向へ進んでいたのです。
家庭内トラブル
もともと薬物依存症という噂のあった夫ボビーの影響から、ホイットニーもドラッグに溺れるように。
しかもボビーから日常的に暴力を受け、さらには当時彼女のマネージメントをしていた実の父親から賃金の未払いで訴えられるなど、耐えがたい不幸が続きました。
2000年にはとうとうホイットニー自身が大麻所持で起訴され、2004年にはアルコールと薬物依存のためリハビリ施設に入所することに。
げっそりと頬がこけ、朗らかだった性格も一転した彼女の姿に、世間は驚きを隠せませんでした。
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そもそも幼い頃に親戚から性的虐待を受けたり、成功してからは彼女の財産に家族がしがみついてきたり、身内に関するトラブルが尽きなかったようです。
彼女の抱える闇は根深そうですね。
再びの挑戦
周囲の説得もあって、2007年に離婚が成立。
そこからさらにリハビリを続け、2009年にはアルバム『I look To You(アイ・ルック・トゥ・ユー)』をリリース。
1週目で30万枚以上を売り上げ、念願のカムバックを果たしました。
そして翌年からはこのアルバムを引き下げて、11年ぶりのワールドツアーも慣行。
ところが、イギリスではライブ中に息切れを起こしたり、フランスでは呼吸器の感染症で入院したりなど、トラブルが相次ぐ結果に。
しかし、そこは腐っても元トップスター。
2011年にアルコールおよび薬物依存からの復帰プログラムを再開した後、`76年の映画『Sparkle(スパークル)』をリメイクする、という長年の夢を叶えました。
主人公の母親役として出演し、映画の製作総指揮もつとめました。
ちなみに、残念ながら完成には至りませんでしたが、他にも2本の映画製作に取り組んでいたようです。
突然の別れ
現地時間2012年2月11日、ホイットニー・ヒューストンは48歳という若さでこの世を去りました。
かつて世界中のステージでファンを魅了していたスターの最期は、翌日のグラミー授賞式に出席するため滞在していたロサンゼルスのホテルの一室。
バスタブの中に倒れていたところを発見されました。
直接の死因は溺死。
入浴中にコカインの影響で心臓発作が起こり、バスタブに沈んだとみられています。
しかも不幸はこれで終わらず、2015年には愛娘ボビー・クリスティーナも22歳という若さで亡くなっています。
自宅のバスタブで、母親と同じようにうつぶせのまま意識不明の状態で発見され、一時は意識を取り戻すも、完治するには至らなかったようです。
ボビーの死後、家族から訴えられていましたが、2020年に謎の死を遂げています。
前に制作されたドキュメンタリー映画と見比べるのも良いかもね。
やっぱり最後はこの曲で締めましょう。彼女の歌声はオールウェイズ・ラヴ・ユー、永遠に愛され続けます↓↓↓