サザンオールスターズ『いとしのエリー』のカバー、あれ好きだなぁ。
同時代のミュージシャンの間でも「天才」って呼ばれた人物なんだ。
逆境だらけの幼少期
盲目の天才ミュージシャン、レイ・チャールズ。
黒人音楽の先駆者として、その名は現代音楽の歴史に深く刻まれています。
しかし、そんな彼が才能を手にするための代償は、あまりに大きいものでした。
本当に複雑な家庭環境
レイ・チャールズ(Ray Charles Robinson Sr.)は、1930年9月23日にジョージア州アルバニーで誕生しました。
母アレサは幼くして母親を亡くし、父親の同僚だった男性に養子として引き取られることに。
のちに、この男性ベイリーと15歳になったアレサの間にできたのが、レイでした。
この時点ですでに複雑ですが、さらにレイはそんな母親アレサと、ベイリーの妻(?!)によって育てられたといいます。
ベイリーの妻はアレサと仲が良く、レイのことも非常にかわいがってくれたそう。
ちなみに、ベイリーは家族を捨てて別の町で再婚。
レイが10歳の時に亡くなりました。
また幼い頃、レイにはジョージという1つ下の弟がいましたが、ジョージは4歳のときに誤って洗濯槽に溺れて亡くなっています。
のちに当時を振り返って「彼がいなかったら、僕はミュージシャンになっていなかった」と語っています。
幼くして家族も視力も失う
レイ・チャールズといえば盲目の天才として知られていますが、彼の目は生まれつきのものではありません。
とはいえ、5歳のときにはすでに部分的な盲目で、7歳ころまでに全盲になったようです。
原因は、緑内障の悪化とみられています。
そのため、彼はフロリダの盲ろう学校に通うことに。
そこでは点字の読み書きだけでなく、クラシックピアノや管楽器の演奏、編曲などを学ぶことができました。
ところが、苦難を乗り越え、希望の光が見えていたそんな矢先のこと。
14歳のレイはなんと、最愛の母親をガンにより亡くします。
視力を失い、独りぼっちになった彼は、学校を辞めてジャクソンビルに移住。
プロ・ミュージシャンとして、生きてゆくことを決意したのでした。
シアトルへ
16歳になったレイは拠点をシアトルに移すと、そこで運命的な2つの出会いを果たします。
1つが、互いに尊敬する音楽仲間で、その後生涯の友人となるクインシー・ジョーンズ。
もう1つが、「マキシム・トリオ」のメンバーたち。
ギタリストのゴサディー・マギーと、ベーシストのミルト・ギャレットです。
2人と組んだことで、初の全米ヒット曲(ビルボードR&Bチャート2位)が生まれました。
さらに一方で、レイ個人はいちプレイヤーにとどまらず、アレンジャーやプロデューサーとしても、お呼びがかかるようになりました。
天才のキャリア
続いて、天才の歩んだキャリアをざっくり振り返りましょう。
初期
レイは1952年、アトランティック・レコードと契約しました。
1954年発表の『I've Got A Woman(アイヴ・ガット・ア・ウーマン)』では、それまでのナット・キング・コールをモデルにしたスタイルから一転。
R&Bやブルースにゴスペルの要素を加えた、新ジャンル「ソウル・ミュージック」を世に送り出したのです。
ちなみにこの曲は、E・プレスリーやビートルズをはじめ、感銘を受けたたくさんの大物ミュージシャンにカバーされています。
そして1959年には、『What'd I Say(なんと言ったら)』が自身初のミリオン・ヒットを記録しました。
エド・サリヴァン・ショーの映像↓↓↓ちなみに4人いる女子のうち、おそらく左から2番目がレイの息子を産んだひとりマージー・ヘンドリックス。
レイの古い音源に、カウント・ベイシーがあとから演奏をかぶせたと知って驚き。すごいマッチして心地よき。ジャズ苦手な人でもイケると思う。
全盛期
アトランティックとの契約満了に伴い、レイは1960年に、ABCパラマウント・レコードと契約。
直後にリリースしたカバー曲『Georgia On My Mind(我が心のジョージア)』が、ビルボードHot100ナンバー1ヒットとなり、おかげで4つのグラミー賞を獲得しました。
その後も『Hit The Road Jack(旅立てジャック)』や、『Unchain My Heart(アンチェイン・マイ・ハート)』、『I Can't Stop Loving You(愛さずにはいられない)』、『You Are My Sunshine(ユー・アー・マイ・サンシャイン)』など、数多くのヒットが誕生。
この時期の彼は、時代を代表するトップ・スターとして、大活躍したのでした。
レイのカバーがヒットした影響で、1979年にはジョージア州の州歌に認定されたんだ。
まさにこれぞ!なお姿↓↓↓このエモさが出せるのは、ジョージア州生まれの彼だからでしょうか。
後期
順調に見えたレイのキャリアですが、‘60年代後半~’70年代前半に発表した作品は、ファンの間でも賛否両論が分かれ、商業的に奮わない時期を過ごしました。
しかし、我が道を信じて進んだ彼は、1974年にスティーヴィー・ワンダーのカバー『Living for the City(汚れた街)』で、再びグラミーを受賞。
1980年に、ミュージカル映画『ブルース・ブラザーズ』に出演したり、1985年の『We Are The World(ウィー・アー・ザ・ワールド)』にも参加しています。
さらに1989年には、チャカ・カーンとデュエットした『I'll Be Good To You(アイル・ビー・グッド・トゥ・ユー)』が、R&Bチャート1位に。
同時期に日本では、テレビCMのためにサザンオールスターズの人気曲をカバーした『Ellie My Love(いとしのエリー)』が発売され、大ヒットしました。
そして、2004年に伝記映画『Ray/レイ』が製作されましたが、公開を目前にひかえた6月10日、肝不全による合併症で逝去。
73歳でした。
当時、この曲でレイちゃんを知った日本人も多かったみたい↓↓↓
レイにJBにアレサ…大勢のスターが出演するコメディー・ミュージカルを、4Kのイイ音・画質で。
制作自体はギリ本人の存命中でした。レイそっくりに演じきったジェイミー・フォックスが、アカデミー賞最優秀主演男優賞を獲得しています。
天才の伝説
「天才」と呼ばれた一方で、プライベートの彼は破天荒な人だったようです。
最後に、レイ・チャールズの豪快な素顔を覗いてみましょう。
お盛んな女性関係
1978年に出版した自伝によると、レイの初体験は12歳。
お相手は年上で、当時20歳くらいの女性だったそう。
以来、彼は女性が大好物で、自分でも「タバコとヘロインに並ぶ中毒」だと認めています。
そんなレイは生涯に2度結婚していて、子供も12人います。
最初の結婚は1年足らずで終わりましたが、2度目の結婚は22年間続き、3人の子宝にも恵まれました。
…???
そうです。
つまり、あとの9人は婚外子で、母親はぜんぶ違う女性!
結婚期間中に不倫したり、独身の時期にも恋人以外の女性と浮気したり…とにかくエネルギッシュな人だったようです。
薬物がやめられない止まらない
レイが薬物に最初に手を出したのは、16歳のころ。
前述したマキシム・トリオ時代、創造力が高まると聞いて、マリファナを吸い始めました。
間もなくヘロインも常用するようになり、ライブ前のバックステージでの使用が見つかるなど、幾度となく逮捕されています。
結局、17年間もの長きにわたってヘロイン中毒に陥っていた彼ですが、1964年に更生を決意。
医師や専門家のサポートのもと、解毒治療を続けてみごとに克服し、1966年に復帰しました。
仲良しプロデューサー、クインシー・ジョーンズとも、その昔は一緒にドラッグをキメていたようで。彼いわく、「レイは睾丸にヘロインを打ってた」とのことです(苦笑)。
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"天才"の称号
レイ・チャールズ最大の功績といえば、1つのジャンルにとらわれずに、さまざまな音楽をクロスオーバーさせたこと。
R&Bやゴスペルのスタイルを組み合わせて、1950年代に新しく「ソウル」というジャンルを開拓しました。
その後の現代音楽に永続的な影響を残したことから、レイは「ソウルの父」と称されることも。
しかし、彼の呼び名といえば、なんといっても「天才(Genius)」でしょう。
あのフランク・シナトラがレイのことを、「ショービズ界で唯一の真の天才」と評したことがきっかけのようです。
自身としては、「ブラザー・レイ」という呼ばれ方が好きだったといいますが、その割にはGeniusという単語をタイトルに冠したアルバムが多い(笑)。
しかもその昔、インタビューで次のようにコメントしています。
「天才だって言われることに対する後ろめたさはないけど、責任は感じるね。
僕自身が、やりたい事があれば誰でもそれを成し遂げられる、というひとつの例だから。」
入門者にオススメのお買い得ベスト盤。いろんなベストがあるけど、聴いてほしい曲がひと通り入ってるのがこの3枚組。